はじめに
筆者はかつて、茨城県つくば市にある国土地理院で、第一軍管地方迅速測図原図(以下「迅速測図原図」)の実物をみせていただいたことがある。一枚ずつ手書きで彩色された「わが国近代地図作成史上最高の傑作」(注1)と評される明治前期の地形図である。迅速測図原図には針であけた無数の小さな穴があいていて、地形図の作成方法が垣間見られたことや、国土地理院の職員の方が白い手袋をはめて丁重に扱っていたことが記憶に残っている。
迅速測図原図の存在は、1987(昭和62)年にNHKで「歴史ドキュメント 地図は国家なり〜明治14年・参謀本部の密命〜」が放映されたことによって広く知られるようになった(注2)。だが、この時点ではまだ覆刻はされておらず、幻の地図であった。迅速測図は1991(平成3)年に日本地図センターから覆刻されたが(注3)、921枚セットで120万円という高価なものだったため、個人で入手することはきわめて困難であった。やがて6~7枚セットの廉価版が再復刻されるようになり、霞ヶ関地区が掲載された迅速測図も1997(平成9)年に発売された。現在では、迅速測図は1枚単位でも購入できるようになるとともに、ネット上でも公開されるようになった(注4)。
迅速測図に付随して作成された偵察録は、いまだに部分的にしか活字化されていない資料である。マイクロフィルムで販売されている(注5)が、明治前期の軍人の手書きの文字がそのまま残されている。現在とは異なる旧字体や異字体の漢字、さらには合略仮名なども交じっている資料である。
本稿では、迅速測図と偵察録が作成された歴史的背景をたどるとともに、迅速測図と偵察録を通して、明治前期の霞ヶ関地区の様子を考察していきたいと考えている。
(注1)長岡正利「明治前期の手書彩色関東実測図―第一軍管地方二万分一迅速測図原図解題-」、『国土地理院時報』No.74、1991年、p.22
(注2)放送された番組の内容は、日本放送出版協会編『NHK歴史ドキュメント⑧』、日本放送出版協会、1988年に収録されている。
1881(明治14)年、清国への地図売買契約を結んだ陸軍参謀本部地図課の職員が国家機密漏洩の疑いで検挙された。それに関係したと疑われた洋画家で、同じく地図課の職員だった川上冬崖(1828~81)が熱海で縊死し、他にも数名の地図課の職員が命を絶った。番組では事件の背景に陸軍内の抗争があったのではないかと推測した。幕府以来のフランス式軍制から、新たにドイツ式へ変わって過程で、地形図作成においてもフランス派が一掃された事件だった可能性を指摘していたのである。参謀本部でドイツ派の中心にいたのが桂太郎(1848~1913)であった。
この事件については、上西勝也氏のHP「史跡と標石で辿る 日本の測量史」(http://uenishi.on.coocan.jp/j696shokiitsuwa.html)でわかりやすく説明されている。
番組にも登場した作家の井出孫六(1931~2020)には、この事件を題材にして直木賞を受賞した『アトラス伝説』、冬樹社、1974年、さらに取材を重ねて出版した『明治・取材の旅』、現代史出版会、1977年、などの著作がある。
陸軍省参謀局(後の陸軍参謀本部)で地形図作成のための図画教育などに尽力した川上冬崖の功績については、師橋辰夫「明治初期洋画壇と陸軍参謀局」、日本地図資料協会編『月刊古地図研究百号記念論集 古地図研究 附古地図集』、国際地学協会、1978年に詳しい。
(注3)迅速測図原図覆刻版編集委員会編『明治前期手書彩色關東實測圖 資料編』、日本地図センター、1991年は、迅速測図覆刻版が921枚セットで販売されたときの解説書である。
(注4)国立研究開発法人農業・食品産業技術総合研究機構 西日本農業研究センター 営農生産体系研究領域 (旧 近畿中国四国農業研究センター 営農・環境研究領域) のHP(https://aginfo.cgk.affrc.go.jp/altmap/index.html.ja)などで閲覧することができる。
(注5)陸軍参謀本部作成、佐藤侊解題『明治前期 民情調査報告「偵察録」』、柏書房、1986年
1 迅速測図
(1)迅速測図が作成された歴史的経緯
迅速測図原図は日本で最初につくられた広域の地形図である。1880(明治13)年から1886(明治19)年にかけて、縮尺2万分の1で、フランス式の技法で作成された、彩色のたいへん美しい地図である。この地形図の作成については予算に限りがあり、かつ「迅速」に作成する必要があったため、費用と時間がかかる三角測量ではなく、やや精度は落ちるが安価で「迅速」な図根測量と細部測量によって作成された(注1)。
迅速測図がつくられたのは、軍事上の目的からであった。地図は軍事的にきわめて重要な情報である。地形を把握することは、軍事作戦をたてる上で必要不可欠なものだからである。現在、地形図は国土地理院で作成されているが、明治期から昭和前期までの間、日本の地図づくりを担っていたのは陸軍参謀本部(注2)であった。
明治初期には、士族反乱が頻発した。1874(明治7)年の佐賀の乱、1876(明治9)年の萩の乱、神風連の乱に続いて、1877(明治10)年には西南戦争が起こる。このとき新政府軍は、田原坂で地形を熟知した反乱軍に苦戦をした。この教訓から、陸軍卿山県有朋(1838~1922)は地形図作成の必要性を痛感したといわれている(注3)。1879(明治12)年、陸軍参謀本部測量課長に就任した工兵少佐小菅智淵(1832~88)は、地形図の作成を計画して、予算化が認められた(注4)。ここに、日本で最初の広域的な地形図の作成が始まることになった(注5)。
こうして関東平野をほぼ網羅する、921枚の迅速測図原図が作成された。だがその頃、陸軍内では幕府以来のフランス式からドイツ式に軍制が改変されていた。地図づくりにおいてもフランス派は駆逐されて、ドイツ派が台頭した。そのため、フランス式の彩色地図だった迅速測図原図は発行されず、替わりに刊行されたのは、白黒のドイツ式地形図だった。そして迅速測図原図は忘れ去られて、110年の間、倉庫で眠り続けることになる(注6)。
(注1)日本地図センター編『地図記号のうつりかわり―地形図図式・記号の変遷―』、日本地図センター、1994年、p.15には、「迅速測図とは陸地測量部等が、国土の詳細な地図の整備を早急に進めるため、明治初、中期に正規の三角点の成果に基づかないで実施した各種の測図法の総称である。明治14年に陸軍は、最初の測量作業規定である『測量軌典』を定めており、この中に正規の三角測量が行われていない土地における平板測量による測図方法を詳しく取り決めている。その方法はおおむね次の通りである。まず、図根点相互の間隔を1~3kmに選定し、次に適当な平地に長さ2kmの基線を設け、基線の一端において大測板上に基線の方位を極星法等により標定する。角の観測には眼鏡照準儀を用い、先に選定した図根点を交会して位置を決める。図根点測量が終わった測板は図郭の大きさを25×20cmに分け、これを小測板に転写して砕部測量(細部測量)の測板とする。砕部測量では、図根点をもとに砕部図根点を求め、次に若干の歩測と目測により地形、地物(地表対象物)の測量を行う。以上のような方法で2万分1迅速測図が行われた」とある。
(注2)国立公文書館アジア歴史資料センターのHP(https://www.jacar.go.jp/glossary/term3/0010-0080-0100-0040.html)では、陸軍で地図作成を担った組織の変遷について「1874年(明治7)2月、陸軍省参謀局に測量と製図を担当する第五課と第六課が設置され、1878年(明治11)12月に参謀局が参謀本部に改編されると地図課・測量課が設置された。1884年(明治17)6月、これまで全国の三角測量を担っていた内務省地理局の測量事業を統合し、参謀本部内に測量局が新設され、内部に三角測量課・地形測量課・地図課が置かれた。1888年(明治21)5月、『陸地測量部条例』が公布され、参謀本部長隷下の独立官庁として陸地測量部が置かれた。部内には三角課・地形課・製図課が設置され、あわせて技官養成の修技所が併設された。陸地測量部では日本国内および外地の地図だけではなく、アジア太平洋地域の地理情報の蒐集にも従事し、『外邦図』と呼ばれる地図の作成にもあたった。1941年(昭和16)4月、『陸地測量部令』が公布され、部内組織は総務課・第一課・第二課・第三課となり、修技所は教育部と改められた。1945年9月、陸地測量部は廃止、内務省に新設された地理調査所に移管された」と説明している。
(注3)師橋辰夫「Ⅰ章 総論-迅速測図原図の諸考証-」、『明治前期手書彩色關東實測圖 資料編』p.21
(注4)師橋辰夫「Ⅰ章 総論」、『明治前期手書彩色關東實測圖 資料編』p.21には、「工兵少佐小菅智淵は陸軍士官学校の教官を兼ねながら測量課長に就任するや、直ちに測量事業の大成を企画し『全国測量一般ノ意見』を稟申(企画、提案)したが、参謀本部長陸軍中将山縣有朋は大いにその主旨は賛するが経費(1000万円)の捻出が困難であると難色を示したので、小菅課長はさらに第二の意見『全国測量速成意見』を提出(この予算200万円)、12月に之が許可を得た。これに伴い明治13年1月『測地概則・小地測量ノ部』が定められ、全国測量の第一歩が踏出された」とある。
(注5)山岡光治『地図をつくった男たち 明治の地図の物語』、原書房、2012年、p.21~p.29によると、迅速測図の作成には、沼津兵学校出身者が陸軍関係技術者として関わっていたという。沼津兵学校は1868(明治元)年に静岡に移封を命じられた徳川家が同年に設立した、幕府時代からのフランス式の軍制を学ぶための学校であった。
清水靖夫「Ⅱ章 地図史-第一軍管地方迅速測図刊行図について―」、『明治前期手書彩色關東實測圖 資料編』p.49によると、迅速測図作成の中心となった小菅智淵は静岡県出身の旧幕臣で、沼津兵学校などで学んだ後に初代陸地測量部長に就任した人物である。
なお、師橋辰夫「Ⅰ章 総論」、『明治前期手書彩色關東實測圖 資料編』p.20では、参謀本部が新設されるまでは旧幕臣・各藩士が測量機関の主流をなしていたとし、「確かに陸地測量部は日本の地図・測量界に貢献したが、その影には、旧幕臣・各藩士の功績が埋れていたのである。この先人の遺産を掘り出す作業の一つが、今回の迅速測図原図の復刻につながるといっても過言ではない。なかでも、維新後に沼津に設置された静岡藩兵学校(沼津兵学校)の教授方および生徒、いわゆる旧幕臣達のなかでも次の者達が知識・技術を買われ、各測量機関に従事し」たとして、絵図方教授の川上寛(冬崖)や、小菅智淵らの名をあげている。
ただし、沼津市明治史料館『沼津市明治史料館通信』第9号、1987年によれば、川上冬崖は「明治元年(一九六八)十月に沼津に移ったが、同年十二月には東京に帰り明治政府に仕えたため、沼津兵学校の実際の授業開始まで在職しなかった」という。
(注6)師橋辰夫「Ⅰ章 総論」、『明治前期手書彩色關東實測圖 資料編』p.20では、迅速測図原図がGHQに接収されることなく保管されてきた理由として、「参謀局以来陸地測量部まで、長ならびに幹部は工兵・砲兵が多い。地図作成の基本がフランスの砲工学校の教科書から採られたことによってもわかるが、地図作成任務は軍の主体である歩兵ではなく、工・砲兵であったことが、終戦後多くの資料を残す功績になったのではないかと思われる。なぜならば、陸軍においては歩兵が主体であって工・砲兵は補助という気風が軍創成当時からあり、砲・工兵を一段下の兵科と蔑視していた。この事が終戦時の軍の解体の際に役立ち、主流の歩兵に関する資料等は焼却もしくはアメリカに持去られたが、工・砲兵を主軸とする地図関係は運良く残された。(旧外地の資料は米軍に持去られたそうであるが)そのなかの一つが、迅速測図原図なのである。旧幕派のフランス軍人と幕臣達の執念が、この図群を世に残させたのではなかろうか」と述べている。
また、師橋辰夫「Ⅰ章 総論」、『明治前期手書彩色關東實測圖 資料編』p.45でも、参謀本部測量課の名簿について「この表によってもわかる如く、測量局発足以前において武官・文官とも薩長出身は少なく、旧幕臣・旧藩士によって占められている。武官においては工兵が主体であることもわかる。前に述べた如く、工兵は歩兵の下にランクされており、薩長閥の武官はあらかた最上級にランクされる歩兵となったため、このような人脈となったのであろう」としている。
1 迅速測図
(2)霞ヶ関地区の迅速測図作成者
、,
霞ヶ関地区が掲載されている迅速測図は、507、510、512、517、519の5枚である。507や510などの番号は、日本地図センターが迅速測図を覆刻する際につけた整理番号である。
「507 埼玉縣武蔵國入間郡川越甼」
的場村の東部が含まれる
作成時期:1881(明治14)年6月
作成者:小地測量第三班 砕部第二測手陸軍歩兵少尉中島康直、第二副手測量課雇宮田義敬、第二副手測量雇川村七次
「510 埼玉縣武蔵国髙麗郡笠幡村及入間郡中小坂村」
的場村の西部・中部、笠幡村の東部・中部が含まれる
作成時期:1881(明治14)年7月
作成者:小地測量第三班 砕部第 測手陸軍歩兵少尉及川勢太郎、第 副手陸軍工兵伍長石原利弥
「512 埼玉縣武蔵国入間郡淺羽村及髙麗郡脚折村」
笠幡村北西部が含まれる
作成時期:1881(明治14)年6月
作成者:小地測量第三班 砕部第六測手陸軍工兵少尉亀岡為定、第六副手陸軍工兵伍長柴田格蔵
「517 埼玉縣武蔵國入間郡奥冨村」
的場村南部と安比奈新田及び笠幡村南部が含まれる
作成時期:1881(明治14)年7月
作成者:小地測量第三班 砕部第三測手陸軍歩兵少尉深谷又三郎、第三副手陸軍工兵伍長石原利弥、第三副手陸軍工兵伍長柴田格蔵
「519 埼玉縣武蔵国髙麗郡髙萩村」
笠幡村南西部が含まれる
作成時期:1881(明治14)年9月
作成者:小地測量第三班 砕部第五測手陸軍砲兵少尉小野安堯、第五副手陸軍工兵伍長山本政三郎
陸軍参謀本部測量課の小地測量は、4つの班に分かれて迅速測図を作成した(注1)。霞ヶ関地区を担当したのは第三班である。全員ではないが、上記の地図作成者の記録が残っている。その属性は以下のとおりである(注2)。
第三班班長 渡部當次
(東京府、士族、工兵中尉)
測手 中島康直
(高知県、士族、歩兵少尉)
測手 及川勢太郎
(岩手県、平民、歩兵少尉)
測手 亀岡為定
(静岡県、歩兵少尉)
測手 深谷又三郎
(静岡県、士族、歩兵少尉)
測手 小野安堯
(徳島県、士族、砲兵少尉)
副手 川村七次
(鹿児島県、文官)
第三班の班長渡部當次は沼津兵学校で学んだ後に(注3)、数々の地形図作成に参加した実績をもつ、測量課の中心的な存在だった(注4)。後述する偵察録では担当地域全体を概観した報告を残している。
渡部當次および静岡県出身の2名は、旧幕臣だったと思われる。新政府の官僚機構には多くの旧幕臣が含まれていたが、地図作成には沼津兵学校以来の旧幕府系の人材・技術が必要とされていたのである。また、測量課第三班に配属となった陸軍士官学校出身者は深谷又三郎(第2期)と及川勢太郎(第3期)である。士官学校で成績優秀だった者が参謀本部に配属され、同校で受けた図画教育の成果を迅速測図に残している(注5)。
迅速測図には、地図上に多くのスケッチ(視図)が残されている。その数は迅速測図の合計で、第一班が135図、第二班が199図、第三班が65図、第四班が162図である。「特に第二班及び第四班の視図描写は見事なもの」であるという(注6)。残念ながら、迅速測図には霞ヶ関地区のスケッチは描かれていない。
(注1)師橋辰夫「Ⅰ章 総論」、『明治前期手書彩色關東實測圖 資料編』p.33によると、第一班~第四班に遅れて、後に第五班ができ、その他に東京班もあった。各班が作成した測板数は以下のとおりである。なお、同資料では「渡部当次」と記されているが、偵察録には自らの字で「渡部當次」と書かれているので、本稿では「渡部當次」で統一して記述をすすめる。
・東京班
9測板(東京地区16km×10km)
班長 歩兵少尉 鮎川富五郎
・第一班
199測板(東京・神奈川・千葉・栃木・茨城の一部)
班長 工兵大尉 小宮山昌寿
・第二班
280測板(埼玉・千葉・茨城・栃木の一部)
班長 工兵中尉 早川省義
・第三班
158測板(群馬・埼玉・神奈川・東京の一部)
班長 工兵中尉 渡部當次
・第四班
211測板(千葉・栃木・埼玉の一部)
班長 工兵中尉 川村益直
・第五班
64測板(群馬・埼玉の一部)
班長心得 工兵中尉 竹内鉸次郎
(注2)師橋辰夫「Ⅰ章 総論」、『明治前期手書彩色關東實測圖 資料編』p.41~p.44
(注3)師橋辰夫「Ⅰ章 総論」、『明治前期手書彩色關東實測圖 資料編』p.12
なお、師橋辰夫「Ⅰ章 総論」では、渡部當次の出身地は東京府となっているが、佐藤侊「陸軍参謀本部地図課・測量課の事蹟―参謀局の設置から陸地測量部の発足まで 3」、日本地図資料協会『地図』29―4、1991年、p.11には静岡県と記述されている。
渡部當次の経歴については、「シリーズ沼津兵学校とその人材66 沼津兵学校資業生 渡部四兄弟」、沼津市明治史料館『沼津市明治史料館通信』第72号、2003年で紹介されている。
(注4)師橋辰夫「Ⅰ章 総論」、『明治前期手書彩色關東實測圖 資料編』p.12~p.15
佐藤侊「陸軍参謀本部地図課・測量課の事蹟―参謀局の設置から陸地測量部の発足まで 3」p.11~p.17、および佐藤侊「陸軍参謀本部地図課・測量課の事蹟―参謀局の設置から陸地測量部の発足まで 5」、日本地図資料協会『地図』30―4、1992年、p.15~p.26
(注5)師橋辰夫「明治初期洋画壇と陸軍参謀局」、『月刊古地図研究百号記念論集 古地図研究 附古地図集』p.548~p.549
(注6)師橋辰夫「明治初期洋画壇と陸軍参謀局」、『月刊古地図研究百号記念論集 古地図研究 附古地図集』p.550
1 迅速測図
(3)霞ヶ関地区の迅速測図
迅速測図は軍事目的の地図ではあるものの、樹木の種類が「楢」、「松」などと具体的な文字で表されているなど、当時の村の様子がわかる色彩地図である。ただし、よく概念がわからない文字もあり、迅速測図を読み解くことは、必ずしも容易なことではない。これまでの先行研究を参考にして、霞ヶ関地区が掲載された迅速測図について考えてみたい。
水田
入間川、小畔川、南小畔川沿いの低地には、「田」、「水」の記号が多い。「田」も「水」も水田である。特に「水」という記号は、水田は湿地であり、「自由に急速に通過できる場所ではなく、またこの部分は見通しの良い所であり、前面に水田地域があれば守りやすく、一方攻めにくい一線でもあった」(注1)ことを反映している。
集落と畑
街道沿いには集落と「畑」が散在している。洪水の被害を避けるため、低地よりもやや高い場所に集落は立地している。さらに高台の台地上は水の確保が難しいために、人々はあまり居住していなかったと考えられる。ちなみに迅速測図では、「畑」は地図の日焼けによって薄茶色にみえるものもあるが、実際は無着色である(注2)。
なお、この時代の川越市域については、「地域別にみるとかなりの差異があり、米作を中心にする村と、麦作を中心にする村とに分かれていたことがわかる。概して市域の東北部一帯は米、南西部一帯が麦の産地であった」(注3)。霞ヶ関地区は畑作地帯であり、麦類の他、雑穀や豆、繭、蚕卵紙、茶、綿織物を生産していた。織物は木綿縞(綿織物)が中心ではあるが、浮縞(絹織物)もつくられていた(注4)。
桑畑
ところどころに「桑」や「桒」の記号がみられる。「桒」も「桑」のことであり、養蚕を行っている農家があったことが確認できるが、その面積はまだそれほど広くない。
偵察録には「笠幡村大田ヶ谷村的場村及吉田村等ノ数村落ハ古来糸入結城、七子、浮織ノ如キモノヲ夥シク製出ス之レ亦多ク農間ニ婦女子ノ営スル処ニシテ実ニ人民ノ勉強感スルニ餘アリ」(0152)という記述があり、笠幡村や的場村などでは、女性や子どもの農間稼ぎとして、結城紬、斜子織(ななこおり)、浮織物といった絹織物が生産されていたことがわかる。「明治初期の川越地方は、県下で最も製糸業が先進的な発達を示し」(注5)ていた。なかでも斜子織は江戸時代から川越斜子と呼ばれ、埼玉西部の特産品であった。川越斜子は幕末の江戸開市の頃には三越や大丸の店頭でも好評を博していたという(注6)。
森林
河川から少し離れた台地には、「楢」の記号が圧倒的に多い。その他に少しだけ「松」と「柗」の記号がみられる。「柗」は「松」のことである。当時、「楢」や「松」などの植栽は広い範囲で行われていた(注7)。
一般的には、「楢」はコナラやクヌギなどを中心とした雑木林であり、「燃料用の柴あるいは肥料用の落葉採取林で、人の管理により一定の樹種に淘汰され、かつ適当な間隔で木の茂る比較的風通しのよい林地である」(注8)といわれる。
「松」は人工のアカマツ林で、「小枝を中心とする家庭の炊事用の柴に対し、割木をしめす薪用であり、当時の工業用といってよい。薪は赤松に限らないが、赤松は油を含み高熱を発し、かつ比較的永く燃焼する。煙を出さぬ木炭を別にすれば、石炭、石油以前の重要な燃料源であり、東京という薪の大消費地もひかえていたため大きな需要があった」(注9)。
この頃の森林には、「比較的低い楢椚の林に、比較的高い松や杉が点々と、あるいはまとまって見られるような地域も珍しくなかった」(注10)という。当時の植生景観は、「明治前期の関東地方の一般の森林の大部分は、大木が少なく、また地域によっては相当樹高の低い森林が存在するなど、今日のものとは大きく異なるものであったと考えられる」(注11)という。森林を幅広く利用する暮らしのあり方が、低植生景観を生み出していたという指摘である。
霞ヶ関地区の森林についても、軍事的には兵隊が比較的通過しやすい林地だったと考えたいところである。だが、後述する偵察録をみると、「森林ハ大抵其樹木密接シテ通過スルコト甚タ難キ」(0151)、「森林ハ尽ク松楢ノ斬伐林ニシテ稠密セル稚樹生茂シ超ユ可カラサルモノ多シ」(0152)、「柏原安比奈地方八東北二向テ森林、蓊蔚トシテ壇漫シ灌木叢篠トシテ天二参シ翠色隠々トシテ人ヲ撩ミ怪ムラクハ魑魅ノ境二入ルカト」(0205)、「其南北大約二吉羅米突相渉リテ雑樹アリ其密林中二川越ヨリ髙麗及飯能二通スル一大路アリ」(0207)などの記述があり、この地域の森林は軍隊の通過が困難な「密林」だったと考えた方がよいと思われる。
草地
わずかであるが「草」という記号もみられる。「草」は「農耕用牛馬の餌料用であり、かつ水田にも必要な肥料の一部であった。これは、前にものべた広葉樹や松の落葉などとあわせ堆肥の材料であり、萱場以上に共有地として村落周辺に分布をみるものである」(注12)という。なお、河川近くの「草」は増水時に水没する場所であったと推察される(注13)。
尾崎神社
尾崎神社には「尾嵜明神」という名称が書かれている。尾崎神社は笠幡村の総鎮守であり、大きな敷地をもっていた(注14)。このため、軍隊の休憩地や司令部設置場所に想定されていたと考えられる。
小畔川と南小畔川
笠幡村付近の小畔川はたいへん細い線で描かれていて、川の名称も記載されていない。南小畔川も同様である。川幅が広く描かれている入間川とは対照的である。
野戸池
南小畔川の南方に池があることが確認できる。この池は野戸池である。古くから農業用水に欠かすことができない溜池であった。1950年代に霞ヶ関カンツリー倶楽部が西コースを拡張したため、現在はゴルフ場の中にある(注15)。
的場小学校
的場村には「小学校」があることが示されている。的場小学校である。的場小学校は1872(明治5)年に愛宕神社内に設立された。ただし、実際に授業が開始されたのは1875(明治8)年のことだった(注16)。愛宕神社も軍隊の休憩地や司令部設置場所に想定されていた可能性がある。なお、笠幡村の延命寺には笠幡小学校が設置されていたが(注17)、こちらは地図上に「小学校」とは明示されていない。
垸工物体
黒い色で示されている家屋は木造家屋であるが、赤い色は垸工物体である(注18)。垸工とはコンクリートだけではなく煉瓦や石積も含まれるが、この時期の農村部にそのような建造物が多数あるとは考えにくいので、赤い色の家屋は土蔵の可能性が高い(注19)。
街道
現在の霞ヶ関地区を通る街道で重要だったのは、東西の交通路である。なかでも物資輸送の動脈となったのが高麗街道(北往還)である。川越方面から初雁橋の少し上流を渡り、的場村に入った街道は、ファミリーマート川越的場店の付近で2つに分岐した。北側の街道が高麗街道(北往還)で、南側の街道が飯能街道(南往還)である(注20)。高麗街道(北往還)は三協食品工場付近を通って、宮下橋を渡った後に、尾崎神社の北側を通って西へ進む道であり、「荷馬車の専用道路」であった(注21)。一方、飯能街道(南往還)は現在の県道川越日高線のルートであるが、「もともと歩道であった」という(注22)。
(注1)井口悦男「Ⅵ章 歴史地理・植生―明治前期における関東平野の土地利用相-」、『明治前期手書彩色關東實測圖 資料編』p.100
(注2)井口悦男「Ⅵ章 歴史地理・植生―明治前期における関東平野の土地利用相-」、『明治前期手書彩色關東實測圖 資料編』p.101
(注3)川越市総務部市史編纂室編『川越市史第四巻近代編』、川越市、1978年、p.386
(注4)『川越市史第四巻近代編』p.387~p.390
(注5)『川越市史第四巻近代編』p.389~p.390
なお、『川越市史第四巻近代編』p.573~p.581では、明治中期の霞ヶ関村の農業経済について詳しく述べられている。
(注6)狭山市編『狭山市史 通史編Ⅱ』、狭山市、1995年、p.118
川越斜子は後には広瀬斜子と呼ばれるようになった。現在の狭山市広瀬地区が質・量とも主産地であったためである。広瀬斜子については、狭山市編『狭山市史 民俗編』、狭山市、1985年、p.445~p.457でも詳しく紹介されている。
広瀬斜子は大正期に入ると衰退し、その伝統は途絶えてしまった。だが近年、広瀬斜子の製法を再現する試みが行われている。その取り組みは、2024(令和6)年3月4日付の「埼玉新聞」に紹介されている。
(注7)小椋純一『植生からよむ日本人のくらし―明治期を中心に―』、雄山閣、1996年、p.96
(注8)井口悦男「Ⅵ章 歴史地理・植生―明治前期における関東平野の土地利用相-」、『明治前期手書彩色關東實測圖 資料編』p.103
なお、「柴」とは家庭の炊事用の燃料となる小枝などのことである。
(注9)井口悦男「Ⅵ章 歴史地理・植生―明治前期における関東平野の土地利用相-」、『明治前期手書彩色關東實測圖 資料編』p.103~p.104
(注10)小椋純一『植生からよむ日本人のくらし―明治期を中心に―』p.92
(注11)小椋純一『森と草原の歴史―日本の植生景観はどのように移り変わってきたのか―』、古今書院、2012年、p.91
(注12)井口悦男「Ⅵ章 歴史地理・植生―明治前期における関東平野の土地利用相-」、『明治前期手書彩色關東實測圖 資料編』p.104~p.105
(注13)井口悦男「Ⅵ章 歴史地理・植生―明治前期における関東平野の土地利用相-」、『明治前期手書彩色關東實測圖 資料編』p.105
(注14)新井博『川越の歴史散歩(霞ケ関・名細編)』、川越郷土史刊行会、1982年、p.53~p.55
尾崎神社の名称は、『新編武蔵風土記稿』では「尾崎明神社」、『武蔵國郡村誌』では「尾崎社」と記されている。
また、川越市立博物館編『第40回企画展 絵図で見る川越ー空から眺める江戸時代の川越ー』、川越市立博物館、2014年、p.30~p.31に掲載されている「武蔵国高麗郡笠幡村絵図面」(1871年)には「尾崎大神」と記されている。
なお、川越市立博物館編『第40回企画展 絵図で見る川越ー空から眺める江戸時代の川越ー』p.29には「安比奈新田絵図」(1799年)、p.65には「笠幡村字黒浜・上式・猿ヶ谷戸地番図」も掲載されている。
(注15)新井博『川越の歴史散歩(霞ケ関・名細編)』p.33~p.36
(注16)新井博『川越の歴史散歩(霞ケ関・名細編)』p.66~p.75およびp.104~p.107
(注17)新井博『川越の歴史散歩(霞ケ関・名細編)』p.15~p.19
(注18)清水康夫「ニ万分一迅速測図の内容について」、歴史地理学会編、『歴史地理学紀要』、 21号、1979年、p.107~p.108
(注19)この件については、埼玉県立図書館にリファレンス(調査・相談)をお願いした。その回答は以下のとおりである。
【ご質問内容】
「第一軍管地方迅速測図原図」における赤い色の家屋は何を意味するのか知りたい。
【回答】
当館所蔵の下記の資料およびインターネット情報に、迅速測図における赤い色の家屋について記述がありました。
■図書
454.9/チ『地形図集 黎明期の地形図より現在の地形図まで』(建設省国土地理院編 日本地図センター 1984)
※久喜図書館所蔵資料。貸出可。
p4「地形図図式の変遷」の「定式符号及定式色号表(明治13年式)に、「家屋は木造は黒、垸工家屋は紅色で表現されている。」とあり。
p26「1:20,000迅速測図(明治13年式)府中駅及連光寺村(原図)」の解説に、「なお、図中において、家屋は木造家屋を黒色で、垸工製家屋を紅色で表現されている。垸工製とは煉瓦や石積を指すが、原図上から判断すると土蔵等も含まれているようである。」とあり。
p27に同図の一部がカラーで掲載されている。赤色の建物あり。
S290.3/ジ『明治前期手書彩色関東実測図 資料編』(建設省国土地理院 日本地図センター 1991)
※熊谷図書館所蔵資料。貸出不可。【OPACでは検索できません】
p70「家屋は戸別に描かれた黒(図式上の尋常家屋)と赤(石・コンクリート製?)の小四角形のものと,総描家屋(周囲は黒色,その中は淡い灰色)があり,総描家屋の中にも赤色の家屋が重複して表示されている。また,横浜区の一部のように赤家屋だけで表示された地区がある。」とあり。
■インターネット情報
「【嶋田・橋本】 迅速測図原図「図式」【最新】」(https://www.gsi.go.jp/common/000207268.pdf 国土地理院)
スライド1に「家屋は木造は黒、垸工家屋(かんこうかおく:レンガや石製の家屋)は紅色で表現されています。」とあり。
(注20)霞ヶ関郷土会編『霞ヶ関の歴史』、1962年、p.42~p.43に、かつての街道に関して、以下のような記述がある。
(1)高麗街道
現在の新町本町通り三協食品工場附近は昔から八丁並木、南の飯能街道を南往還といい高麗街道を北往還といつた。当時はこの北往還が高麗川越をつなぐだいじな道で荷馬車の専用道路であつた。明治二十五、六年頃まで本村民は高麗駄賃によつて働いていた。高麗へ三里、河岸へ二里高麗駄賃は一日天保通宝一枚(当百、八厘)であつた。天保銭には当百と書いてあるが、これは明治三年以前は百に通用されていたが三年以後は八厘として使われたそうである。
(中略)
高麗街道は荷馬車専用の重要な交通路であつたが反面とうぞくも多く出た。そのため、笠幡名主発智庄平氏宅の前と的場宮田屋商店向あいの所にごはんぎょう を書いて次のようなことを書いて出した。
「よとう、とうぞく、船遊び(海賊)たちまわり候はゞからめとり、さし出すべきものなり。
川越城主松平大和守奉行
(2)飯能街道
飯能街道はもともと歩道であった。これは飯能方面から川越江戸への荷物運搬は入間川のいかだが使われたからです。明治三十二年川越坂西間が県道の補助道になつた。そこで的場の代表者が大町(はたや)大室定次郎さん宅で月二回集会し県道昇格について協議した。そして荷馬車が〇月〇日〇台通つた等長い間調査したり、今の役場(支所、出張所)前から下高萩まで砂利を入れたりしたのが県道になるもとになつて、大正九年漸く認可された。これより人通りは日増しにふえ、高麗街道はだんだんさびしくなった。(後略)
高麗街道(北往還)と飯能街道(南往還)については、迅速測図「510 埼玉縣武蔵國髙麗郡笠幡村及入間郡中小坂村」ではっきりと確認できる。高麗街道(北往還)は「髙麗至川越道」、飯能街道は「髙萩至川越道」と記載されている。
また、川越市立博物館編『第40回企画展 絵図で見る川越―空から眺める江戸時代の川越―』、p.30~p.31に「武蔵国高麗郡笠幡村絵図面」が掲載されている。この絵図面は1871(明治4)年のものである。これをみると、高麗街道(北往還)は川越方面から西へ向かい、現在の大町橋で南小畦川を渡り、宮下橋で小畔川を渡り、尾崎神社の北側を通って西へ向かう街道であったことがよくわかる。
『武蔵國郡村誌 第五巻』では、高麗街道(北往還)のことを「川越街道」(p.175、p.176、p.179)、または「川越道」(p.179)と呼んでいる。
なお、前出の『霞ヶ関の歴史』に「飯能方面から川越江戸への荷物運搬は入間川のいかだが使われた」とあるが、この記述には疑問がある。埼玉県さきたま資料館編『歴史の道調査報告書 第九集 入間川の水運』、埼玉県教育委員会、1988年、などの資料をみても、入間川では筏流しはあったが、物資の輸送を水運で大量に行っていたとは考えにくい。
(注21)『霞ヶ関の歴史』p.42
(注22)『霞ヶ関の歴史』p.42
2 偵察録
(1)偵察録とは
地図ヲ製造スルト同時ニ軍事ニ関スル緊急事物ヲ査実シテ偵察録ヲ編集シ以テ参考ニ供シ地図ヲシテ完全ナラシムヘシ
迅速測図の作成に際して、陸軍参謀本部は上記のような指示を出していた(注1)。偵察録の提出が義務づけられていたのである。迅速測図とセットになっていた偵察録は、地域の軍事情報を収集することを目的としていた。
迅速測図と偵察録を作成するための規定であった「兵要測量軌典」によると、偵察録は次のように作成することになっていた(注2)。
偵察ハ図根測量主管及砕部測量主管之ニ任シ測量ヲ監視スルト同時ニ施行スル者ナリ両主管ハ土地ヲ経過シテ実験スル所ニ従ヒ或ハ土人ニ質シ尚其実証ヲ得サル者ハ之ヲ地方官ニ問ヒ凡ソ軍事ニ緊要ナル事物ハ細大泄サス之ヲ審知シ其事項ヲ筆記シテ偵察録ヲ製ス可シ
「兵要測量軌典」では、偵察録に記載する事項を天然物、統計および交通としている。天然物では、土地の位置、土地の景況、山地、水地、地質、大気の6項目、統計では、人民、住所、建築物料、農事、森林、駄獣及食用禽、工業、商法の8項目、さらに交通では、陸路、水路、渡水法、電線の4項目を調査し、それに加えて統計表も作成することになっていた(注3)。しかし、1883(明治16)年の前半以降には、次第に内容が省略され始めている。このため、偵察録は作成された時期によって内容にバラつきがある資料である。霞ヶ関地区の偵察録は1881(明治14)年に作成されたため、ほぼ上記の項目が記載されている。
(注1)師橋辰夫「Ⅰ章 総論」、『明治前期手書彩色關東實測圖 資料編』p.34
(注2)師橋辰夫「Ⅰ章 総論」、『明治前期手書彩色關東實測圖 資料編』p.35
なお、師橋辰夫「Ⅰ章 総論」、『明治前期手書彩色關東實測圖 資料編』p.30によると、「兵要測量軌典」はフランスの砲工学校の教科書に準拠したものである。
(注3)師橋辰夫「Ⅰ章 総論」、『明治前期手書彩色關東實測圖 資料編』p.35~p.37
2 偵察録
(2)川越市域およびその周辺の偵察録
政記諸數表の分析
現在の川越市域を記録した偵察録については、埼玉県立川越高等学校郷土部による研究が残されている。同校郷土部では、2002(平成14)年度から2003(平成15)年度にかけて偵察録を分析し、文化祭で発表するとともに、その成果を部報にまとめている(注1)。
この調査では、各町村の政記諸數表(統計表)のデータを地図化して、現在の川越市域を分析する手法がとられている。偵察録の統計表は、軍事作戦上の兵站を考えるためのデータであるが、当時の川越市域の状況を知る手がかりにもなる。同校郷土部の調査では偵察録の統計表だけではなく、『武蔵国郡村誌』(注2)のデータも参考にしている。分析された項目は、①人口、②戸数、③寺院、④学校・病院、⑤馬車、⑥人車、⑦荷車、⑧小舟、⑨大工、⑩米、⑪麦、⑫雑穀、⑬酒、⑭醤油、⑮琉球芋(サツマイモのこと)、⑯駄馬、⑰鶏、⑱家鴨、⑲米水車・工業用水車、⑳特産品である。
『部報「初雁」』第23号の分析結果を、一部列挙してみる(注3)。
・人口は川越町の市街地に集中している。
・川越町の市街地には寺が集中している。これは城の防御のためである。
・荷車は主要幹線上の村に集中している。もちろん物資の流通に関係している。
・米は川越市域東部の村の生産が多い。現在の水田地帯とも一致する。
・醤油は川越町、砂村、府川村、砂新田村、扇河岸村で生産されていた。いずれも河川に沿った村である。
・駄馬(輸送用の馬)は、河川や伊佐沼に近い村に多い。小舟から荷揚げされた物資の運搬用だったのではないか。
・特産品は、繭は北部と南西部、茶は南部、藍は南西部などの地域的な特徴がみられる。
軍事面の分析
偵察録の第一義的な目的である軍事面では、川越は防衛の拠点と位置づけられていた。偵察録では北方から首都東京へ攻め込む勢力を想定して(注4)、その場合に川越をどのように防衛するのかについて論じている。川越高校郷土部の部報に、偵察録の書き下し文が掲載されているので引用してみたい(注5)。この部分の執筆者は、前述した渡部當次である。
今、西北の方向から東京に進入しようとする軍があるとき、その本軍が進むには中仙道の広い道を使うが、その攻略のときには先に必ず川越を取る。そうしてから西北から東京に攻め込もうとするのは必ず起こることである。これは地理がこの策略に適しているのであり、川越は北軍の攻撃点になりうる所である。そしてその進路は、群馬県の藤岡周辺から比企郡菅谷村を経て、図版西北の隅に入西山の山頂物見山を占領し、一つは中仙道熊谷駅の近くから松山町を奪う。そして漸次川越町を襲撃する手段を行なうことができる。そうなったときは、これを逆襲するのは思うに簡単なことではない。だから川越の地は、東京帝都のために警戒して西北方に備えなければならない。そしてこの地に充分な警備を配して、敵に先じて物見山の要点や松山町を占領する。あるいはここから中仙道熊谷駅に突入し、駅馬街道に突進するという策を行なえば、北軍がその目的を達成することはできない。
現在の川越市街を敵の手に渡さないことがいかに重要であるかが力説されている。埼玉県中西部の防衛について記述としては、中仙道の本隊から派遣される川越攻撃部隊との戦闘への備えが記されていて、この部分が川越市域の偵察録の核心部分である。
では、霞ヶ関地区はどうか。霞ヶ関地区は川越市街の西部にあたる。偵察録では、西方からの川越への攻撃について、次のように考えている(注6)。この記述も渡部當次のものである。
この地方は東京に近接する地で、この防禦法のために大変関係がある土地である。その最も要所であるのは図板の東北の隅にその南端を顕している川越町で、この市街は東京のためにしっかり守らなければならない地であり、前回すでにその東北部の攻守法を論じた。この図板はこの地の西南部の防禦に関するものなので、地図について次にその考察を陳述する。川越は防禦に向く、敵に譲ってはならない地とする。これより扇町屋を収容して黒須村及び入間川村の後方の台地上に備えて入間川の通過路を制して、進んで大袋村及び大塚村に連絡して警備を施せば西部の防禦は多分十分であろう。しかし、この連系中の少し脆弱な点は大袋村の近傍の地である。したがって、この地方のような所はとりわけ強固な砦を築設して厳しい警備法を施し、かつ入間川村の台地上及び野田村より則防が容易なので敵の街中攻撃に備えるべきである。
この記述からは、西方からの攻撃ルートとして想定されているのは、現在の国道16号線方面からであることがわかる。霞ヶ関地区はこのルートからは少しはずれたところにある。したがって、霞ヶ関地区は戦時に向けた重要な防衛拠点とは想定されていない地域であったと考えてよいだろう。
(注1)埼玉県立川越高等学校郷土部『部報「初雁」』第22号、2002年および第23号、2003年
(注2)迅速測図が作成された明治10年代半ばと同じ頃、全国的な地誌として『皇国地誌』が編纂され、府県ごとに中央政府に提出されたが、関東大震災で原本は焼失してしまった。だが、その副本として今日まで伝わっているものの一つが『武蔵国郡村誌』である。『武蔵国郡村誌』には1876(明治9)年の統計が載せられている。
(注3)『部報「初雁」』第23号、p.22~p.49
(注4)佐藤侊『「偵察録」について-明治前期 民情調査報告「偵察録」解題―』、柏書房、1986年、p.3には「明治新政府はこの時までいくつかの小さな反乱を鎮定し、さらに、最大の内乱となった明治10(1877)年の西南戦争をのり切った。しかし、政府内部には東北地方にまだ若干の危惧を残し」ていたと記されている。
なお、佐藤侊『「偵察録」について-明治前期 民情調査報告「偵察録」解題―』は、柏書房から発売されているマイクロフィルム5巻セットの解説である。
(注5)『部報「初雁」』第23号、p.56。原文は『明治前期 民情調査報告「偵察録」』、第3巻、0123~0124
(注6)『部報「初雁」』第23号、p.59。原文は『明治前期 民情調査報告「偵察録」』、第3巻、0189
2 偵察録
(3)霞ヶ関地区の偵察録
マイクロフィルム化された偵察録(注1)の第3巻に、笠幡村と的場村(0150~0156)および安比奈新田(0209~0211)に関係する記述がある。数字はマイクロフィルムに振られた通し番号である。
0150~0156 の記録者は、第三班第四砕部測手陸軍歩兵少尉及川勢太郎と第四砕部副手陸軍工兵伍長石原利弥、0209~0211の記録者は第四測期第四測回第三班第三砕部測手陸軍歩兵少尉深谷又三郎で、砕部副手の氏名は記載がない。及川勢太郎と石原利弥は迅速測図「510 埼玉縣武蔵国髙麗郡笠幡村及入間郡中小坂村」の作成者であり、深谷又三郎も迅速測図「517 埼玉縣武蔵國入間郡奥冨村」を担当している。基本的に、迅速測図を作成した担当者が同じ地域の偵察録を記録していることがわかる。2 偵察録
(3)霞ヶ関地区の偵察録
3-1)小畔川の呼称の謎
霞ヶ関地区の偵察録を読んでみると、大きな疑問点となるのが小畔川の呼称である。偵察録では小畔川のことを小矢瀬川、あるいは小鮪川と記録しているのである。
小矢瀬川
偵察録に「小矢瀬川」という名称が登場するのは、いずれも及川勢太郎と石原利弥が担当した笠幡村と的場村が含まれる部分である。資料にあるように、平塚新田で入間川と合流して、さらに越辺川とも合流して荒川に至る川であると記されている(注2)ことや、鯨井村、笠幡村を流れている川なので、この「小矢瀬川」が小畔川であることはまちがいない。資料に出てくるのは、次の4か所である。
図中入間川ハ源ヲ埼玉縣秩父郡武甲山ノ近傍ニ発シ数里ノ間濚洄奔流シテ川越ノ西北大約一里ヲ距ル平塚新田ニ於テ狭少ナル小矢瀬川ヲ含ンテ直チニ越辺川ト合シ以テ荒川ニ入ル(0151)
小矢瀬川ハ廣サ偉カニ十三里米突内外深サ下流ニ至リテ頗ル深シ是シ全ク狭少ナルニ源ス該川モ亦入間川ノ如ク両岸ニ堤防ヲ繞ラシ水害ヲ除ク是亦宜シク注意スヘキナリ該川ニ架スル処ノ小橋ハ仮板橋ナルヲ以テ砲隊ヲ通過セシムルニハ先ツ之ヲ修繕スヘシ(0151)
入間川出水シ徒渉スルコト能ワスシテ架橋ヲ要スルトキハソノ河岸(的場村ト池辺村トノ間)ニ樹木及人家ナキヲ以テ池辺村又ハ的場村ニ於テ豫シメ之ヲ準備スヘシ小矢瀬川モ亦然リ而シテ在来ノ小橋ハ鯨井村及笠幡村ノ西部ニアル二橋ヲ除クノ外重兵ヲ通過セシムルコト甚タ困難ナリ(0151)
小矢瀬川ハ廣キ点ニテ十二三米突ニ過キス故ニ所処ノ物件ヲ以テ之ヲ埋メ更ラニ困難ナク渡ルコトヲ得ヘシ(0155)
小鮪川
「小鮪川」が登場するのは、深谷又三郎が担当した安比奈新田が含まれる部分である。「鮪」には「ハゼ」とルビが振ってある。「コハゼガワ」と読むのであろう。資料には1か所だけ登場する。
其髙麗道ノ如キハ畧ホ同方向ニシテ小鮪(ハゼ)川二沿ヒ笠幡村二入ル此ノ両道共二歩ヲ追テ漸ク髙シ此ノ土地自然ノ傾斜ヲ帯フルニ根スレハナリ(0210)
他の史料
同時代の他の史料では、小畔川はどのように表記されているのか。
迅速測図については、フランス式の迅速測図原図「510 埼玉縣武蔵国高麗郡笠幡村及入間郡中小坂村」、および刊行された白黒のドイツ式迅速測図「川越」のいずれにも、地図上に小畔川の河川名は表記されていない。
それ以外の文献で確認できたものは、すべて「小畔川」という記載である。『武蔵國郡村誌』(注3)、『新編武蔵風土記稿』(注4)をはじめとして、「小畔川」という呼称以外は見当たらない(注5)。「小矢瀬川」と「小鮪川」は、偵察録以外の記録には出てこないのである(注6)。
推察
偵察録を記述した及川勢太郎と深谷又三郎は、陸軍士官学校出身である。彼らは地図の作成だけでなく、軍人としてのさまざまな教育を受けていた。したがって、「小矢瀬川」や「小鮪川」が、単なる誤記だとは考えにくい(ただし、「鮪」は「鯊」の誤記かもしれない)。だが、偵察録以外には「小矢瀬川」と「小鮪川」という記録は見当たらない。この点をどう考えたらよいのか。
素直に考えれば、明治前期の当該地域では、小畔川は「小矢瀬川」あるいは「小鮪川」などと呼ばれていたのではないだろうか。公には「小畔川」と呼ばれていたが、地元の人々からは、地域ごとに少しずつ異なったローカルな名称で呼ばれていたのではないか、と推察するがいかがだろうか。
(注1)陸軍参謀本部作成、佐藤侊解題『明治前期 民情調査報告「偵察録」』、柏書房、1986年
(注2)実際には小畔川は先に越辺川と合流し、次に入間川と合流する。
埼玉県編『荒川 人文Ⅱ-荒川総合調査報告書3-』、埼玉県、1988年、p.43~p.44によれば、この時代の合流点は落合橋の上流であったが、洪水を防ぐための入間川改修計画により、合流点は落合橋の下流になった。この工事は1944(昭和19)年度から1954(昭和29)年度にわたって行われ、小畔川と越辺川の合流点は1km下流へ、入間川と越辺川の合流点は2km下流へと引き下げられた。
(注3)埼玉県編『武蔵國郡村誌 第五巻』、埼玉県立図書館、1954年、p.179
(注4)蘆田伊人編『大日本地誌体系⑮ 新編武蔵風土記稿 第九巻』、雄山閣、1996年、p.87
(注5)この点については、埼玉県立図書館にレファレンス(調査・相談)をお願いしたところ、次のような回答をいただいた。
【ご質問内容】
明治前期の偵察録では「小畔川」が「小矢瀬川」「小鮪川」と表記されているが、実際は何と呼ばれていたのか知りたい。
【回答】
当館所蔵の下記の資料およびインターネット情報を調査しましたが、『偵察録』のほかに「小矢瀬川」「小鮪川」という表記を用いているものは見当たりませんでした。
参考として、明治期以前に作成された資料で「小畔川」と記述のあるものをご紹介します。
1 所蔵図書
S292/イ『入間郡地誌史談』(埼玉県入間郡小学校教員講習会編 菅間定治郎 1899)
「入間郡地誌史談一覧表」に「山川池沼」に小畔川が散見される。
PDF版(https://www.lib.pref.saitama.jp/item/pdf/2020003080.pdf 埼玉県立図書館)16コマ-20コマ
S299/サ『坂戸市史 近世史料編2』(坂戸市教育委員会編 坂戸市 1991)
p355-361「小畔川瀬直目論見帳」、p361-365「小畔川御普請人足帳」
2 インターネット情報
《埼玉県立文書館 収蔵資料検索システム〉
(https://www.i-repository.net/il/meta_pub/G0000069OUDAN 埼玉県立文書館)
〈小畔川〉で検索すると、江戸時代の古文書や明治18年の「高麗郡吉田村小畔川沿革調」など複数ヒットします。
なお、〈小矢瀬川〉〈小鮪川〉〈小鯊川〉でも検索しましたが、該当するものはありませんでした。
(注6)吉田東伍『増補 大日本地名辞書』、冨山房、初版1903年、増補版1970年、p.449には小畦川が載っているが、「小畔」には「ヲグロ」とルビが振られている。
2 偵察録
(3)霞ヶ関地区の偵察録
3―2)笠幡村と的場村の偵察録の主な記述
原文は後の資料を参照していただきたい。「埼玉縣高麗郡笠幡村、的場村、天沼新田、吉田村、太田ヶ谷村、五味ヶ谷村、上廣谷村、小堤村、鯨井村、上戸村、藤金村、入間郡小坂村、関間」地域の調査のうち、笠幡村と的場村に関する事柄を中心に、記述されている内容を列挙してみたい。
なお、笠幡村と的場村を含む地域の偵察録には、筏流しに関する記述がみられる。
通常出水スルトキハ土民木材ヲ以テ筏ヲ編ミ流ニ従テ此川ヲ下ル(0151)
入間川ハ夏時通常水少ナキヲ以テ之ヲ水路ト為スコト能ワス然レトモ大ニ出水スルトキハ筏ヲ編ミ之ヲ下スヲ得ヘシ而シテ上流ニ向テ舟筏ヲ上スコト能ワス難キ(0155)
これらの記述からは、飯能方面からの西川材の筏流し(注1)とともに、この地域の木材も筏として流していたように読み取れる。また、「出水スルトキハ」(0151)(0155)という記述にあるとおり「入間川やその周辺の河川は、荒川筋などに比べて流量が少なく、筏流しも増水時に行われていた」(注2)。
土地の景況
・土地には著しい凹凸はないが、小高い丘と窪地が断続的に続いている。
・低地は水田が続き、小高い丘は森林であり、村落が点在している。土地の3/4は松と楢の森林で、1/4は耕地である。
水地
〇入間川
・夏の干ばつのときはほとんど水がない。
・連日の降雨や雪解けで出水するときは、高さ2m50cmの堤防を越水するか、堤防を壊して沿岸の耕地を水浸しにする。その実害は言葉にできないくらいひどいものである。
・出水のときには現地の住民は木材で筏をつくり、流れに従ってこの川を下る。
・池辺村と的場村の間は、夏時には川幅は約300m、深さは50~60cmである。河底は砂礫でどこでも渡渉できる。
・両岸の堤防は堅固なので、戦術上の利害は著しい。
・出水して徒渉ができず、架橋が必要なときには、池辺村と的場村の間には樹木や人家はないので、池辺村か的場村においてあらかじめ準備をすべきである。
〇小矢瀬川
・広さはわずかに13mで、下流ではたいへん深い。
・入間川と同様に、両岸に堤防をめぐらせて、水害を除いている。
・小橋は仮板橋なので修繕しないと砲隊は通過できない。
・出水したときには、笠幡村および鯨井村の西部にある2つの橋を除いて、重兵を通過させることはたいへん困難である。
地質
・泥土で粘着力はない。この地質はいろいろな植物に適合するという。
備考
・地形は波状で多くの交通路があり、森林は生い茂っているものの休止の警戒勤務はやりやすく、野営に適した場所も多い。
・兵隊を自在に動かすことができ、攻撃する方も守る方も堅固な根拠地を得ることができる。
・ただし、攻撃の場合、水田に妨げられて勢力をそがれる。
・この地で有効な兵力は歩兵であり、騎兵と砲兵は応援にすぎない。森林は樹木が密接なので騎兵と砲兵は道路を離れることが難しく、特に騎兵の役割は伝達をすることくらいにすぎないことが多いだろう。
・騎兵と砲兵は、水田にそそぐ小さな灌漑溝のために行進を阻害されるので、よく注意すべきである。
政治
・各村の戸長役場で諸務を行うが、ここで処理できないことは川越の郡役所に判断を仰ぐ。
・警察は坂戸から派遣され、月に2~3回巡回するだけである。
・郵便は高萩、坂戸、あるいは川越で処理する。
人民
・素直で飾り気がないが、頑固で道理に暗い。がさつな者やあさはかで軽々しい者は少ない。
・近年、製茶と養蚕の仕事がおおいに進歩し、農間にこれを営んでいない農家はない。
・笠幡村、太田ヶ谷村、的場村、吉田村などは、糸入結城、七子、浮織を多く生産するが、これは農間に女性や子どもが営んでいる。人民がよく研究していることには感心する。
・裕福な者は少なく、貧しい者が多い。これは所有する耕地が少なく、小作地(注3)が多いことが原因であろう。
・賭博を行う者が林中に出没することがあるが、これは貧困ゆえのものであろう。
・少年や中年には祭りの日や農事の遊日に煙や火をあげて遊戯としている者もいる。現地の住民には火薬製造方法を理解している者がいるので注意すべきである。
住所
・人々の住むところは木製の家屋が密集している。ここに投宿できるという利点はあるが、相手からの榴弾で灰燼となってしまうので、攻めるのは易しいが、守るのは難しい。ここを守ろうとすれば、人家にことごとく放火して利用すべきである。わずかな外面を堅固にして、後方の交通を困難にするなどの防御術を尽くすべきである。
・すべての農家には少なくても1つは物置小屋があるので、騎兵や砲兵が投宿するのに便利である。ただし、軽車の使用によって駄馬の数が著しく減少しているので、芻や秣を調達することは難しい。
建築物料
・家屋は総じて茅の屋根で木製の不潔なもので、瓦の屋根の土蔵はまれである。
農事
・耕作は主として馬を使用する。それ以外の珍しいものを利用する者はない。
・笠幡村と太田ヶ谷村は夏の日照りのときには、田に入れる水に困るという。
森林
・森林はことごとく松と楢の伐採林で稠密であるため、軍隊が通過できないところが多い。
・林道が少ないため、騎兵と砲兵は特に困難を極める。
・森林の周縁部には、地形の凹凸があり、森林の周縁部の道は広いところが分断されるために軍隊が通過できないところと、広いところが長く続いて軍隊が通過できるところがある。
・森林の周縁部は、周辺を見渡せて、平行する水田があるので守勢防御には堅固な陣地をつくることが容易で、ここを攻めることは難しい。
・もし林中で野営をするときはあらかじめ樹木を伐採するとともに、十分な飲料水を用意すべきである。
家畜及動物
・家畜は若干の駄馬、駄牛と鶏がいるにすぎない。
商法
・現地の住民は製茶、繭、反物および薪炭で農間の商いとしている。
備考
・概観としては、土地は豊かで、人々は素直でよく勉めに励んでいる。遊び人で節度がない者は少ないが、剣撃を好む者がいる。これは武を好むということではなくて、防犯と遊戯にすぎない。これは徴兵を忌避するという蛇蝎のようなものだと知っておくべきである。
・軍隊が村落に宿泊するときには、一家で平均12~13人を収容することができる。したがって、政記諸數表をみれば、その村落に宿泊させることができる人数を知ることができる。
陸路
・広大な林地を除けば、道路は縦横に通じてるが、野戦砲隊が通過できる通路はまれである。川越より高萩、越生、坂戸、飯能及び小川などに通じる里道は、たいてい幅6mで、通過する土地も平坦で急坂や険しい道といった障害はないけれども、渡ることができない小さな灌漑溝のための小橋のために断絶してしまうことが多い。
・その他の通路にいたってはさらにダメである。そのため、人数が多くない軍隊といえども、歩くたびに障害物に遭遇する。その場合には、野橋を広くしたり、守りを堅くしたり、2つの橋を架橋したり、堤防を広くするか修繕するなどのために、遅々としてその行進が渋滞することは免れない。このことに着眼する必要がある。
・通路の地質は天然の泥土で粘力はないというものの、降雨のときはぬかるみですべる。ただし、ぬかるみは深くはない。
水路
・入間川は夏は水が少ないため、水路とすることはできない。
・激しく出水するときは、筏を編んでこれを下流に下らせることができる。そうはいっても、上流に筏を上らせることはできない。ゆえに入間川からは戦術上の利益を大きく得ることができるが、兵略上に用いることはできない。
河川及溝渠ヲ渡ルノ手段
〇入間川
・通常はどこも徒渉できる。
・徒渉ができないときは、渡舟も難しく、両岸は堤防で樹木もなく、橋をかけることも困難である。
・その場合、すみやかに川を渡るよい手段は、両岸の堤防上で水を左右の平地に流すために、適度な数カ所を選んで堤防を破壊して、水を左右の地に流して、幾分か本川の水の勢いを弱めて、そこの民家を壊して筏を編んで、川を渡るのがよい。
〇小矢瀬川
・広いところでも12~13mにすぎないので、どこでも何かで川を埋めて、困難なく渡ることができる。
備考
・概観すれば、土地は暗く森林に蔽われて、変化に富んだ土地であり、たいへん戦術上で有利である。
・しかし、兵略上の有利さはない。それは交通や輸送のための道が整備されていないためである。
(注1)飯能から東京の千住までは、入間川から荒川を経由して、筏流しで5日ほどかかったという。入間川流域には名栗や飯能からの筏師が宿泊する筏宿があった。埼玉県さきたま資料館編『歴史の道調査報告書 第九集 入間川の水運』、埼玉県教育委員会、1988年、p.55には、「川越市安比奈新田の入間川左岸にあるA家は、農業のかたわら筏乗りも行い、安比奈から千住まで行ったことがあるという。そうした背景から、宿屋ではないが、しばしばA家に筏師が泊まったといわれる。ここへ泊まる筏師の多くは飯能の人であり、安比奈まで一日がかりで来たという。このほか安比奈新田では、I家(二軒)へ泊まる筏師もいた。筏はA家付近の岸辺へ繫留した。その先の鯨井の渡しでは筏を繫留し、一部を陸揚げし、馬力で川越の町まで運んだという」と記されている。筏流しは江戸時代にはじまり、大正末期から昭和初期くらいまで続いた。この安比奈新田の農家については、埼玉県西部地域博物館入間川展合同企画協議会編『入間川4市1村合同企画展 展示図録 入間川再発見!ー身近な川の自然・歴史・文化をさぐってー』、埼玉県西部地域博物館入間川展合同企画協議会、2004年、p.82~p.83にも掲載されている。
(注2)『歴史の道調査報告書 第九集 入間川の水運』p.16
(注3)原文(「偵察録」第3巻、0152)では「備作ノ地」である。意味がよくわからない言葉であるが、『初雁』第23号、p.15では「小作人」とされており、文脈的にもそれでよいと思われる。
2 偵察録
(3)霞ヶ関地区の偵察録
3-3)安比奈新田の偵察録の主な記述
こちらも原文は後の資料を参照していただきたい。「埼玉県武蔵國入間郡大袋村、増形村、池邉村、山城村、青柳村、堀兼村、大袋新田、上奥富村、下奥富村、藤倉村、髙麗郡柏原村、同新田、安比奈新田」地域の調査のうち、安比奈新田と笠幡村に関する事柄を中心に、記述されている内容を列挙してみたい。
なお、霞ヶ関地区ではないが、記述の中に狭山茶と暢業社(ちょうぎょうしゃ)が登場することに注目しておきたい。
偵察録には、堀兼村と青柳村は狭山茶の産地と記述されている。狭山茶については、1875(明治8)年に黒須村に狭山会社が設立された。これによって八王子商人の手を経ずに、直接、横浜での貿易に乗り出すとともに、狭山茶ブランドを確立しようとしたのである(注1)。狭山会社の設立願には、笠幡村の戸長であった発智荘平も署名している(注2)。
暢業社は、埼玉県で最初の機械製糸工場であり、1877(明治10)年に上広瀬村に設立された。木製の製糸機械30組に工女60人を配置し、煮繭には蒸気釜を使用した。暢業社でつくられた生糸は、横浜の外国商館から高い評価を得て、高値で取引された。しかし、設備投資のほとんどを県の勧業資金に依存し、しかもたびたびの風水害により工場のほとんどが破壊されたため、その後の経営は思うように運ばず、1889(明治22)年には東京の資本家の手に渡った(注3)。
土地ノ景況
・入間川の西にある柏原村、安比奈新田から東北方向に向かうと、森林が生い茂って天に届き、怪しい化け物の世界のようである。
水地
・柏原村、安比奈新田、的場村などの諸村は入間川の左岸にある。入間川の勢いは蛇のように流れ、雷のように走り、水の流れは清く、激流である。水石がたがいにぶつかって響き、鐘が鳴っているようである。
・河床は次々に変化する。夏は往々にして洪水を起こすが、平常の水位だとその深さは脛が没するところまではないので、橋は設けられていない。概ね袴をまくって渡渉できないところはない。しかし、急流なのでいったん氾濫を起こせば、見渡す限り水となるが、河岸の長い堤防は鉄壁のようである。
地質
・入間川の川辺は灌漑ができ、水利が豊かで豊饒である。
・堀兼・青柳地方は広く平らであるが水利に乏しい。この地では近年、桑や茶の木を植え、芽が出ている。そもそも土地に適している茶は狭山茶の範囲内にある。
大気
・柏原村西部から笠幡村では夏には朝と暮に霧がもうもうと出て、近くの物も見分けることができなくなる。これは森林の影響を受けたものなのだろう。
政治
・柏原村と安比奈新田は高麗郡に属し、郡庁は川越である。
・物産管理の方法は、小会社を設けて、人民が共同しているものもある。暢業社があり、県下の同業者を大きな範囲で集め、今、その勢いは滑車が上まで達するような、まさしく次第に盛大の域に至っている。
人民
・人情は険しさと温かさが相反している。半商半農の者は概して軽薄で、専業農家は純情である。
・風習は下品で、礼儀や節操といった礼儀を知る者は少ない。
・貧富でいえば下の者が多いが、近年は豊作なので飢餓に苦しむ者は少ない。
・宗教は仏教を信じている。
・生計は農耕、養蚕を仕事としている。
・人民の教育水準は低いので、教育で変えていくべきだし、兵にもさせるべきである。
住所
・一般に不潔な茅屋で寝食している。陸海軍営病院や旅館、大きな家屋などはない。
・寺院では、大袋村に東陽寺、上奥富村に瑞光寺、下奥富村に興福寺、笠幡村に延命寺があり、それぞれ村中で屈指の古刹である。
建築物料
・笠幡村、安比奈新田、柏原村の間の森林の中間に松が高くそびえているので、建築材の補助にすべきである。その他にもいろいろな樹が茂っているので、兵廠をつくるのには十分である。
農事
・産物には茶と繭が若干量ある。
森林
・笠幡村から柏原村、安比奈新田の諸村に連なって、東西800m、南北2kmにさまざまな樹木がある。その密林中に川越より高麗および飯能に通じる大きな道がある。
商法
・柏原地方にはわずかに地元産の織物がある。大袋新田から県道沿いは小さな共同社で茶と蚕の商いを行っている。
・しかし目先の利益にこだわって、天下の経済を知らないので、商法として記録するほどのものではない。
陸路
・川越より飯能および高麗に通じる飯能道は、安比奈新田西北の森林を通過して大谷沢村(注4)に入る。高麗道はほとんど同じ方向で、小鮪(ハゼ)川に沿って笠幡村に入る。
水路
・入間川は浅く、流れが急で水運はない。特に北武岳の木材を輸送することにはあまり役立っていない。
(注1)入間市博物館編『史料で読み解く 狭山茶の歴史』、入間市博物館、2019年、p.43には、狭山会社は「お茶の粗製濫造を防いで国益を向上させ、製茶業者を保護育成して収入を増やすことを目的に設立された」。そして「輸出も、中間業者を通さずに直接アメリカの代理店への売る事で、より多くの利益が製茶業者に入るようにしようとした」と記されている。だが、狭山会社は経営を軌道に乗せることができず、設立から8年あまりで解散したと考えられている。
(注2)大護八郎『茶の歴史 川越叢書第9巻』、国書刊行会、1982年、p.70
(注3)狭山市のHP(https://www.city.sayama.saitama.jp/manabu/dentou/siteibunkazai/soutoku.html)の内容をまとめた。
(注4)原文は「大谷村」であるが、「大谷沢村」の誤記であろう。
2 偵察録
(3)霞ヶ関地区の偵察録
3-4)政記諸數表の分析
霞ヶ関地区の政記諸數表(統計表)は資料に載せたとおりである。
ただし、この統計の正確性については疑問が残る。戸長役場などで報告された数字が記入されていると思われるが、どこまで正確なものなのかはわからない。また、調査が及ばなかった項目については、空欄のままになっているところも少なくない。そのため、ここでは数字の細かな分析は行わないが、農産物や輸送・移動手段などについての注目すべき事項について、考えておきたい。
まず、笠幡村、的場村とも、水田よりも麦を中心とする畑作に重点が置かれる農村だったことが再確認できる。台地上に広がる地域なので、地形的にも当然のことである。安比奈新田は「田」の面積と「米」の収穫量は空欄になっている。『武蔵國郡村誌』でも確認したが、「税地」は「畑」のみであった(注1)。
次に、雑穀の比率が比較的高いことも読み取れる。『武蔵國郡村誌』における1876(明治9)年の統計をもとにして、現在の川越市域を分析した『川越市史第四巻近代編』の記述にも、「商品性の乏しい雑穀、豆・ソバ類はすべての地域で栽培されているのが特色である。農業生産が、なおまだ自然経済的性格を強く持っており、内容的にも分化の程度が低かったことを物語っている。雑穀として、粟や稗がかなり一般的に作られていたことも、当時の農業の後進的性格を示しており、また農民の生活程度の低さを示している」(注2)とある。
さらに注目しておきたいのは、笠幡村での酒の生産である。時代は下るが、1892(明治25)年の統計をもとに記述された『川越市史第四巻近代編』には、「霞ヶ関村で注目しなければならないものは織物と酒である。(中略)霞ヶ関村でも織物と酒の比重は著しく高く、総額一三万五一七四円のうち九一%をしめていた。(中略)霞ヶ関村で、酒の生産量が多かったのは米の品質と関連していたと思われる。川越市場では山田村・霞ヶ関村の米は良質のものとして評価されていた。これは、両村が乾田地であったからである。これに対して湿田が多い芳野・仙波・古谷・南古谷の各村の米は、のちに暗渠排水ができて乾田化されるまでは、やや低く評価されていたのである」(注3)と記されている。良質な米と水(注4)があったために、笠幡村で酒造業が発展したと考えられる。
続いて、荷車について考えてみたい。荷車の所有台数は、安比奈新田は19輌でそれほど多くないが、的場村73輌、笠幡村102輌と、周辺の村よりも多い。明治10年代は東京周辺の農村部で荷車数が急速に増加したといわれる(注5)。偵察録の統計よりも5年前の数値が載っている『武蔵國郡村誌』によれば、安比奈新田は中車12輌、的場村は小車6輌、笠幡村は53輌(大八1輌と小車52輌)であった(注6)。数字の正確性の問題はあるにせよ、わずか5年の間に荷車数がかなり増加していたことはまちがいないだろう。偵察録の記述にも、「軽車ノ用法行ハレシヨリ以来駄馬ノ数著シク減少セシヲ以テ蒭秣ノ便ヲ得ルコト甚タ難シ」(0152)とある。「軽車」は荷車のことであろう。荷車の普及によって、馬の数が減少してると書かれている。荷車の普及は、農民たちの運搬力を強化した。東京西部の農村では、「荷車利用によって村落と都市が結びつき、『肥料投入量』と『野菜の生産・販売量』が効率的に連動するようにな」ったという(注7)。霞ヶ関地区周辺においても、荷車の増加が経済活動に大きな影響を与えたにちがいない。
最後に、渡し船について触れておきたい。的場村の「小舟」に「2」という数字が入っているが、これは入間川の渡し船の可能性がある。いつ頃からあったのかはっきりしないが、霞ヶ関地区と対岸を結ぶ渡しとしては、的場の渡しと安比奈新田の渡しがあった。「的場の渡しは、高麗郡的場村(現川越市)と入間郡小ヶ谷村(現川越市)を結ぶ渡し場であった。現在の初雁橋の上流100メートル程のところにあった。(中略)この渡し場は(中略)川越から飯能方面への幹線道路であった」(注8)。渡しは春から秋にかけてで、渇水期の冬の間には仮橋を架けていたという(注9)。また、「安比奈新田の渡しは、高麗郡安比奈新田村(現川越市)と入間郡増形村(現川越市)方面を結ぶ渡しであった」(注10)。ただし、これらの渡し船が明治前期に存在していたかどうかは、確認できていない。1800年代前半に編纂された『新編武蔵風土記稿』には、「渡舟は根岸村・鯨井村の下にあり」と記述されているだけである(注11)。
(注1)『武蔵國郡村誌 第五巻』p.172
(注2)『川越市史第四巻近代編』p.386~p.388
(注3)『川越市史第四巻近代編』p.574~p.575
(注4)笠幡村で酒造が行われるようになった経緯については、『川越の歴史散歩(霞ケ関・名細編)』p.21~p.24に記されている。特に地下水については、次のような記述がある。「小畔川沿線の笠幡字倉ケ谷戸あたりは、地下水が豊富なうえに硬度が高くて鉄分が少なくまさに酒造には理想的な水が得られたため、江戸時代から酒造が行われてきた」(p.21)という。また、「笠幡の旧家で代々名主役を務めてきた発智家では、川越藩から許可された酒造株を持っており、この水を使って屋敷の一角で酒造りを行ってきた」(p.21)。ただし、実際に酒造をはじめたのは近江国出身の杜氏、小林善七である。善七が久星(きゅうぼし)酒造を設立したのは天保年間から幕末にかけてのことあった。2代目善吉のときに久星酒造は飛躍的に発展し、霞ヶ関村の酒の生産は増大した。
(注5)武田尚子『荷車と立ちん坊 近代都市東京の物流と労働』、吉川弘文館、2017年、p.159
(注6)埼玉県編『武蔵國郡村誌 第五巻』p.172、p.175、p.179
(注7)武田尚子『荷車と立ちん坊 近代都市東京の物流と労働』p.163
(注8)『歴史の道調査報告書 第九集 入間川の水運』p.34。同書によれば、的場の渡しは的場村の島村家が舟2艘で渡船を営んでいたという。『川越の歴史散歩(霞ケ関・名細編)』p.214には名細地区の「入間川に現在のような橋のかかる大正の初期までは、冬や春の渇水期には橋をかけ、夏や秋の増水期には橋をとりはずして、舟で料金をとって人や荷車、荷馬車などを渡したものである。この渡しは『私渡船』などの言葉がある通り、川越藩とか埼玉県のようないはゞ官営ではなく、両岸の村々の者が農業の余暇に私的に管理、運営してきたもので」あったと記されている。
(注9)『歴史の道調査報告書 第九集 入間川の水運』p.34
(注10)『歴史の道調査報告書 第九集 入間川の水運』p.34~p.35
この渡しは夏期に安比奈新田の農民が対岸の耕作地へ行くためのものであり、冬期の渇水期には仮橋をかけた。
(注11)『大日本地誌体系⑮ 新編武蔵風土記稿 第九巻』p.87
ただし、狭山市編『狭山市史 近代資料編』、狭山市、1988年、p.415~p.420には、上広瀬村ー入間川村間(現在の新富士見橋付近)や柏原村ー入間川村間(現在の昭代橋付近か)の渡船場の開設願書と県の許可書等が掲載されている。上広瀬村ー入間川村間が1875(明治8)年、柏原村ー入間川村間が1887(明治20)年と年代にやや開きはあるが、霞ヶ関地区に渡船場が開設されたのも、その頃のことだったと思われる。
なお、『武蔵國郡村誌』によると、入間川に架かる橋は的場村の明神渕橋と中川原橋、小畔川に架かる橋は笠幡村の宮下橋があった(『武蔵國郡村誌 第五巻』、p.175~p.176およびp.179)。
明神渕橋は「川越街道に属し村の東南入間川の下流に架す長三十間巾四尺木製」(『武蔵國郡村誌』)であり、現在の初雁橋の少し上流にある明神渕公園付近にあったと思われる。的場の渡しと同じ場所である。ただし、橋といっても長さが三十間(約54.6m)なので(現在の初雁橋の橋長は279.66m)、冬期の渇水時に架ける仮橋だったのではないかと思われる。前述した新井博の著作にも、名細地区の入間川に現在のような橋の架かったのは大正時代の初期だと記されている。(『川越の歴史散歩(霞ケ関・名細編)』p.214)。霞ヶ関地区だけ突出して早い時期に恒久的な橋が架かったとは考えにくい。埼玉県西部地域博物館入間川展合同企画協議会編『入間川4市1村合同企画展 展示図録 入間川再発見!ー身近な川の自然・歴史・文化をさぐってー』p.57にも「明治時代頃までは洪水でも破壊されない万年橋や永久橋を建設することに技術的にも未熟であったし、ましてや江戸時代には軍事防衛上の理由などで橋を架けない川も多くありました。このため、多くの川では川船や人足を配置した渡し場を各所につくり、川の往来を補ったのです。入間川では江戸時代から大正時代頃まで、20ヶ所にも及ぶ渡し場があって、渡し賃を徴収して人や馬などを渡し船や仮橋で渡す方法が行われました。」と記述されている。
中川原橋は「東京往還に属し村の東南入間川に架す長二十間巾四尺木製」(『武蔵國郡村誌』)と記録されている。八瀬大橋付近の小字が中川原なので、そのあたりにあったと考えられる。こちらの橋も長さ二十間(約36.4m)であり(現在の八瀬大橋の橋長は239.20m)、仮橋だと考えてよいだろう。
宮下橋は「川越街道に属し村の西北小畔川の下流に架す長六間巾一間木製」であった(『武蔵國郡村誌』)。偵察録にも小矢瀬川(小畔川)は「在来ノ小橋ハ鯨井村及笠幡村ノ西部ニアル二橋ヲ除クノ外重兵ヲ通過セシムルコト甚タ困難ナリ」(0151)と記されている。笠幡村の西部にある橋であれば、重兵の通過は可能だとしている。だが、宮下橋は笠幡地区の東部に架かる橋である。この矛盾した記録をどのように考えればよいのか、いまのところよくわからない。どなたかご教示いただければ幸いである。なお、川越市立博物館編『第40回企画展 絵図で見る川越ー空から眺める江戸時代の川越ー』p.30~p.31に掲載されている「武蔵国高麗郡笠幡村絵図面」(1871年)をみると、笠幡村を通る小畔川には6本の橋が架かっている。高麗街道(北往還)は東端に「川越道」、西端に「高麗道」と記され、宮下橋と思われる橋も確認できる。
おわりに
迅速測図と偵察録が作成された明治前期には、都市部は急速に発展していた。だが、農村部はまだ近世(江戸時代)とほとんど変わらなかったといわれる。
笠幡村、的場村、安比奈新田が合併して霞ヶ関村が誕生するのは1889(明治22)年のことである。迅速測図と偵察録からは、霞ヶ関村成立前夜の村の様子を垣間見ることができる。
そこは、土地の1/4程度が耕地で、3/4が森林という世界である。森林は稠密で、軍隊の移動を妨げるものであった。耕地は水田よりも畑が多く、畑では麦類を中心に雑穀やサツマイモもつくられていた。そして笠幡村では酒造がさかんであった。
また、桑が植えられ、養蚕が行われ、絹織物が生産された。茶もつくられた。生糸と茶は、幕末に貿易が開始されると輸出品となったため、この地域の人々も時代の流れに敏感に反応した。霞ヶ関地区とは密接な関係にある地域に、生糸では暢業社、茶では狭山会社という新たな組織が立ち上げられた。
人々は決して豊かではなかったが、変化する時代のなかで、懸命に生きていた。たとえば、絹織物を熱心に研究している農家の女性たちに対して、中央から派遣された軍人は「実ニ人民ノ勉強感スルニ餘アリ」(注1)と評価しているのである。
近年、迅速測図と偵察録を使った地域研究がさかんになっている。埼玉県内でも「草加市史」(注2)や「三郷市史」(注3)などで、迅速測図や偵察録を使用した地域の分析が行われている。川越市立博物館の企画展でも迅速測図が取り上げられ、図録に残されている(注4)。
今回、迅速測図と偵察録がつくられた時代背景、地図作成に携わった人たち、さらに霞ヶ関地域の迅速測図と偵察録を紹介しようと試みた。ただし、迅速測図からみえてくるもの、偵察録の記述からわかるものは、相当広い範囲に及んでいるため、記述した項目以外にも注目すべき事柄や論点がいろいろとあると思われるが、多くの方に関心をもっていただければ、まずは「紹介」という目的は達することになるのかと思う。今後、内容をさらに充実させていきたいと考えている。
(注1)「偵察録」第3巻(0152)
(注2)草加市史編さん委員会編『草加市史 資料編 地誌』、草加市、1990年
(注3)三郷市史編さん委員会編『三郷市史 第十巻 別編 水利水害編』、三郷市、2000年
(注4)川越市立博物館編『第40回企画展 絵図でみる川越ー空から眺める江戸時代の川越ー』には、現在の川越市域の部分を合成した「川越市域迅速測図」(p.68~p.69)が掲載されている。p.66には「埼玉県下武蔵国入間郡鴨田村(復刻版)」、p.67には「埼玉県武蔵国入間郡奥富村(復刻版)」が掲載されている。
2022(令和4)年 初冬
〔資料1〕偵察録(第3巻 0150~0156)
笠幡村、的場村を含む地域
0150
偵察録 明治十四年七月第一測期第三測回 第三班第四砕部測手陸軍歩兵少尉及川勢太郎
第四砕部副手陸軍工兵伍長石原利弥
〔地名〕
埼玉縣高麗郡笠幡村、的場村、天沼新田、吉田村、太田ヶ谷村、五味ヶ谷村、上廣谷村、小堤村、鯨井村、上戸村、藤金村、入間郡小坂村、関間
〔天然物記載〕
土地ノ位置
右ニ列ナル村落ハ川越ノ西方二三里内外ニシテ川越髙萩及坂戸ノ中間ニ散布シ東京日本橋ヲ隔ル大約十三四里但シ髙萩及坂戸ハ八王子ヨリ日光ニ通スル街道ニアリテコレモ亦東京ヲ隔ル大畧十四五里ナリ
土地ノ景況
土地ハ著シキ凹凸ノ差ナシト雖モ岡阜凹窪相断続シテ皺状地ヲ為成スソノ卑低ノ地ハ連綿タル水田ニシテ岡阜ヲ界ス岡阜ハ皆森林陰醫シテ往々数百米突ニ亘ルソノ間ニ数個ノ村落散布シ各村ノ離隔遠キモ一吉羅米突ニ過キス概スルニ土地四分三ハ松楢ノ森林ニシテ四分一ハ耕地ナリ此部ノ西部即チ上戸村近傍ハ廣濶綿亘タル平原ニシテ之レヲ望ムニ恰モ一ツノ髙原ノ如シ他ハ悉ク隠蔽切断ノ不斉地ナリ
河盂分隔線及山地
(記載なし)
0151
水地
図中入間川ハ源ヲ埼玉縣秩父郡武甲山ノ近傍ニ発シ数里ノ間濚洄奔流シテ川越ノ西北大約一里ヲ距ル平塚新田ニ於テ狭少ナル小矢瀬川ヲ含ンテ直チニ越辺川ト合シ以テ荒川ニ入ル入間川ハ夏時旱発ノ時ハ殆ント水ナキニ近シト雖トモ連日降雨又ハ雪解時節ニ至テ出水スルトキハ堅固ニ両岸ニ築ク処ノ髙サニ米突五〇厚サニ米突ノ堤坊畧ヲ超過シ或ハ之ヲ破毀シテ沿岸ノ耕地ヲ濕タシソノ実害ニ名状ス可カラス通常出水スルトキハ土民木材ヲ以テ筏ヲ編ミ流ニ従テ此川ヲ下ル故ニ兵畧上水利ノ便ヲ得ルコトアリ
該川ハ池辺村及的場村ノ間ニ於テハ川幅大約三百米突深サ通常五六珊知米突(夏時)河底ハ悉ク沙礫ニシテ何処モ徒歩容易ナリ且ツ両岸ノ堤防ハ甚タ堅固ナルヲ以テ戦術上ノ利害実ニ著シ須ラク注意スヘキナリ小矢瀬川ハ廣サ偉カニ十三里米突内外深サ下流ニ至リテ頗ル深シ是シ全ク狭少ナルニ源ス該川モ亦入間川ノ如ク両岸ニ堤防ヲ繞ラシ水害ヲ除ク是亦宜シク注意スヘキナリ該川ニ架スル処ノ小橋ハ仮板橋ナルヲ以テ砲隊ヲ通過セシムルニハ先ツ之ヲ修繕スヘシ
入間川出水シ徒渉スルコト能ワスシテ架橋ヲ要スルトキハソノ河岸(的場村ト池辺村トノ間)ニ樹木及人家ナキヲ以テ池辺村又ハ的場村ニ於テ豫シメ之ヲ準備スヘシ小矢瀬川モ亦然リ而シテ在来ノ小橋ハ鯨井村及笠幡村ノ西部ニアル二橋ヲ除クノ外重兵ヲ通過セシムルコト甚タ困難ナリ
地質
地質ハ悉ク天然ノ泥土ニシテ粘着力ナシ此地質ハ諸植物ニ適好スルト云フ
大氣
二十二三度ヨリ九十三四度ノ間ニアリテ東京に仝シ
備考
地形波状ニシテ数多ノ交通路ヲ有シ森林醫鬱タルモノハ休止ノ警戒勤務ハ容易ニシテ野営ノ便地多キモノナリ此ノ如キ地ニ於テハ兵隊ノ運轉自在ニシテ攻守両勢共ニ堅固ナル根拠地ヲ得ルコト易シト雖トモ特ニ攻襲ノタメニハ恐避スヘキ綿亘ノ水田ニ遮妨セラレ大ニソノ勢力ヲ沮害セラルヘシ此地ハ戦爭ニ甚タ利益アレトモソノ力ヲ逞フスルヲコトヲ得ルモノハ特ニ歩兵ノミニシテ騎兵砲兵ノ如キハ唯ソノ應援タルニ過キサルヘシ森林ハ大抵其樹木密接シテ通過スルコト甚タ難キヲ以テ騎砲ノ二兵ハ道路ヲ離ルヽコト能ワサルハ勿論騎兵ハ特ニ交通伝信便ヲ得セシムルニ過キサルコト多カルヘシ又騎砲ノ二兵ハ水田ニ注ク狭少ナル灌漑溝ノタメニ歩々ソノ行進ヲ沮害セラルヽヲ以テ能ク茲ニ注意スヘキナリ
0152
〔政記記載〕
政治
各村ノ諸務ハ各ソノ戸長役場ニ於テ辨理ス戸長役場ニ於テ能スルコト能ワサルモノハ之川越ノ郡役所ニ仰ク警察ハ坂戸ヨリ査官派出シテ毎月二三回宛右ノ数村落ヲ巡廻スルノミ郵便モ亦髙萩坂戸或ハ川越ニ於テ之ヲ辨ス
人民
人民ハ皆質撲頑愚ニシテ軽粗浮薄ノ徒少シ近年ニ至リテ製茶及養繭ノ業大ニ進歩シ各戸農間ニ之ヲ営マサルハナシ且ツ笠幡村大田ヶ谷村的場村及吉田村等ノ数村落ハ古来糸入結城、七子、浮織ノ如キモノヲ夥シク製出ス之レ亦多ク農間ニ婦女子ノ営スル処ニシテ実ニ人民ノ勉強感スルニ餘アリ然レモ富裕ノモノ少ク貧窶ノモノ多キハ処有ノ耕地少フシテ備作ノ地多キニ原スルカ又賭博ノ徒往々林中ニ出没スルコトアリト聞ケハ或ハ此悪蔽貧窶ノ媒介ヲ為スモノナルカ此辺ノ各村落ノ少年中年ノモノハ祭祠又ハ農事ノ遊日ニハ煙火ヲ放飛スルヲ以テ無上ノ遊戯ト為スカ如シ故ニ土民ニ間々火薬製造ノ道ヲ理會スルモノアリ注意スヘシ
住所
人民ノ住所ハ木製ノ家屋密集シ投宿スルニ利アリト雖モ一榴弾ノタメニ悉ク灰燼ト為スヲ得ヘキヲ以テ之レヲ攻ムルハ易クシテ之ヲ守ルハ甚タ難シ若シ之ヲ守ラント欲セハ人家ヲ尽ク放火シ利用スヘキ瑣々タル外面ノ隔障ヲ堅固ニシ及ヒ後方ノ交通ヲ容易ナラシムル等大ニソノ防禦術ヲ尽サル可カラス
総テ農家ニハ少クトモ一個ノ物置小舎アルヲ以テ騎兵砲兵ノ投宿ニハ甚タ便利ナリ然レモ軽車ノ用法行ハレシヨリ以来駄馬ノ数著シク減少セシヲ以テ蒭秣ノ便ヲ得ルコト甚タ難シ
建築物料
家屋ハ総テ茅蓋木製ノ不潔ナル尋常家屋ナリ瓦蓋ナル土蔵ハ稀レニ見ル処ナリ
農事
耕作ハ主トシテ馬匹ヲ使用スソノ他珍器ヲ使用スルモノナク又変異ノ事ナシ笠幡村及大田ヶ谷村ハ夏時旱スルトキハ大ニ養田ノ水ニ困ムト云フ
森林
森林ハ尽ク松楢ノ斬伐林ニシテ稠密セル稚樹生茂シ超ユ可カラサルモノ多シ殊ニ樵路及道路ハ稀レニシテ且ツ大氣ノ流通ヲ助ケ及ヒ伐木ニ便スルタメニ設クル処ノ林道ナキヲ以テ騎砲ノ二兵ハ特ニ困難ヲ極ムヘシ又林縁ノ形状ハ凹凸曲折シテ凹角アリ凸角アリ或ハソノ林縁ノ外地道直ニ敞開断切シテ超ユ可カラサルアリ或ハ敞開連亘トシテ超ユ可キアリ而シテ林縁ハ多クソノ近傍ヲ瞰臨シソノ前面ニ相平行セル水田ヲ帯ブ故ニ守勢防禦ニハ堅固ナル陣地ヲ得ルコト易フシテ攻者ハ之ヲ攻襲スルコト甚タ難シ
林中ニ斬伐開墾ノタメニ生成セル林空ハ時トシテアレドモ天然ニ成ルモノハ絶テ之レナシ故ニ仮令ヒ其地髙燥ナルモ野営ヲ布クニ甚タ難シ若シ野営ヲ要スルトキハ豫シシメ樹木ヲ斬伐シ充分ニ飲水ヲ用意スヘシ
0153
家畜及動物
家畜ハ若干ノ駄馬駄牛及鶏ニ過キスソノ数ハ政記諸数表ニ詳ナリ
工業
(記載なし)
商法
土人製茶、繭、反物、及薪炭ヲ以テ農間ノ商法ト為ス
備考
概シテイヘハ土地豊饒人民質撲勉励ニシテ遊情放逸ノモノ少ク間々劔撃ヲ好ムモノアリ然レトモ敢テ武ヲ好ムニアラス唯防盗及遊戯ニ過キサルカ如シ之レ徴兵ヲ忌避スル蛇蝎ノ如キヲ以テ之ヲ知ルヘキナリ
軍隊村落ニ宿泊スルトキハ一家平均十二三人ヲ容ルヽヲ得ヘシ故ニ政記諸數表ヲ調査スレハ其ノ村落ニ宿泊セシメ得ル処ノ人員ヲ知ルコトヲ得ヘシ
政記諸數表 0153~0154
〔別表〕
0155
〔交通路記載〕
陸路
廣大ナル林地ヲ除クノ外通路細経縦横ニ通シ恰モ蜘網ノ如シ然レトモ野戦砲隊ノ通過シ得ヘキ通路ハ甚タ稀レナリ川越ヨリ髙萩越生坂戸飯能及小川等ニ通スル里道ハ大抵道幅六米突ソノ通過スル土地ハ平坦ナルヲ以テ峻坂嶮路ノ障碍ナシト雖モ狭少ナル灌漑溝ノ渡ルヘカラサル小橋ノタメニ沮絶セラルヽコト多カルヘシソノ他ノ通路ニ至リテハ殊ニ然リトス故ニ人員衆多ナラサル軍隊ト雖モ歩々障碍物ニ遭遇シテ或ハ野橋ヲ廣クシ又ハ堅守ナラシメ或ハ別にニ橋梁ヲ架設シ或ハ堤路ヲ廣クシ或ハ修繕スル等ノタメニ屡々其行進ノ騫滞ヲ免レス故ニ主トシテ此点ニ着眼スルヲ要ス又通路ノ地質ハ天然ノ泥土ニシテ粘力ナシト雖モ降雨ノ時ハ泥濘甚タ滑カナリ(但シ泥濘深カラス)
水路
入間川ハ夏時通常水少ナキヲ以テ之ヲ水路ト為スコト能ワス然レトモ大ニ出水スルトキハ筏ヲ編ミ之ヲ下スヲ得ヘシ而シテ上流ニ向テ舟筏ヲ上スコト能ワス難キ故ニ入間川ハ戦術上ノ利益ヲ得ルコト大ナリト雖モ兵畧上ノ用ニ供スルコト能ワス
河川及溝渠ヲ渡ルノ手段
入間川ハ通常何ノ処モ大抵徒渉スルコト得若シ徒渉スルコト能ワサルトキト雖モ渡舟ヲ得ルコト難シ又両岸ハ堤坊ニシテ樹木ナク橋梁架設モ亦甚困難ナリ故ニ速カニ之ヲ渡ルノ好手段ハ両岸ノ堤坊上ニ於テ水ヲ左右ノ平地ニ潰流セシムルニ好キ数点ヲ撰ンテ之ヲ破壊シ水ヲシテソノ左右ノ地ニ潰流セシメ以テ幾分カソノ本川ノ水勢ヲ減殺シ処在ノ民家ヲ毀ツテ筏ヲ編ミ以テ之ヲ渡ルニ若カサルナリ
小矢瀬川ハ廣キ点ニテ十二三米突ニ過キス故ニ所処ノ物件ヲ以テ之ヲ埋メ更ラニ困難ナク渡ルコトヲ得ヘシ
0156
電線
(記載なし)
備考
概言スレハ土地陰蔽不斉ニシテ大ニ戦術上ノ利害ヲ与フ然レドモ兵畧上ノ考按ハ絶テナキカ如シ是レ交通運輸ノ道開ケザレハナリ
〔資料2〕偵察録(第3巻 0205~0211)
安比奈新田を含む地域
0205
偵察録 明治十四年七月 第四測期第四測回第三班第三砕部測手陸軍歩兵少尉深谷又三郎
砕部副手 (記載なし)
〔地名〕
埼玉県武蔵國入間郡大袋村、増形村、池邉村、山城村、青柳村、堀兼村、大袋新田、上奥富村、下奥富村、藤倉村、髙麗郡柏原村、同新田、安比奈新田
〔天然物記載〕
土地ノ位置
混々庇々トシテ南ヨリ北東ヲ貫流スルハ則チ入間川ニシテ西高麗ノ郡境ヲ界ス河東二方テ奥富村南北二相連亘シ其村分レテ二ツトナル南ナルヲ上奥富村卜称シ北ナルヲ下奥富村卜称ス上下共二入間郡中二在テ東京ノ城二去ル十三里北ノ方二里ニシテ川越二達ス亦高崎宮所ヲ離ル十八里二十五町ナリ而シテ其上下奥富ノ間二挾マレ柏原新田アリ
髙麗郡下二属ス亦下奥富村ノ東南二増形藤倉山城等ノ諸村相群テ互二項背相接シ或ハ水田ヲ逍テ遥二相対ス大袋村ハ増形ノ東南ニシテ北方池邉二相境ス亦青柳堀兼ノ両村ハ川越道ノ左側ニシテ東西二相並列ス然リ而シテ柏原安比奈新田笠幡等ノ諸村共二高麗郡下ニシテ柏原ハ入口ヲ隔テヽ奥富卜遥二相対ス北二回リテ飯能ノ道ヲ覆ヒシ森林ヲ越エレハ同シ郡ナル笠幡村二相着ス是ヨリ東高麗ノ里道ヲ僅力通リ越シ村道過キテ入間ナル河ノ辺二相立チシ村八則チ安比奈ナリ
土地ノ景況
南ヨリ北二向テ自然ノ傾斜ヲ有シ所謂北武山岳ノ脚麓卜称ス可シ故二北二向ヒ歩ヲ起ストキハ趾ヲ挙クル漸ク髙キヲ覚ルガ如シ然リ而シテ入間江流百里一瞬玉ノ如ク砕ケ雪ノ如ク蜚ヒ雷ノ如ク吼、虎ノ如ク睥ル浅而瀬卜為リ急ニシテ端卜為バ水清フシテ鏡ノ如シ以テ掬ス可シ其江西柏原安比奈地方八東北二向テ森林、蓊蔚トシテ壇漫シ灌木叢篠トシテ天二参シ翠色隠々トシテ人ヲ撩ミ怪ムラクハ魑魅ノ境二入ルカト漸クニシテ樵路晃轉僅二人行ヲ通シ一大路相会ス則飯能ヨリ川越二達スル通路是ナリ然リ而シテ江東ハ一般二耕地ニシテ右一半即入間川村ノ東北ヨリ堀兼青柳ヨリ大袋新田二連リテ耕野相連亘シ其原新田地方ノ如キ平昿連二吾人ノ眼ヲ遮キルモノナシ亦左一半ハ場甫相錯雑シ乃彊シ乃場シ彊場ノ間村落碁布シ加フルニ江堤綿蜒タリ上下奥富村ノ間ヨリ田中二山城増形ノ形勢是レナリ
河盂分隔線及山地
(記載なし)
0206
水地
入間川ハ其源ヲ名栗川成木川ノ諸川ヨリ発シ高麗入間両郡ハ概境ニシテ西南ヨリ東北二相流レ遂二荒川卜相合ス其左岸ニハ柏原安比奈的場等ノ諸村相列シ右岸下奥富増形池邉等ノ数邑相沿イテ連レリ其河勢蛇ノ如ク流レ雷ノ如ク奔リ水急ニシテ流レ清ク激流シテ水石相搏チ響キ洪鐘ノ如シ随テ其河床屡々変化ス夏時往々洪溢ヲ見ル其平水二在二人深サ骭ヲ没スルニ至ラス故二橋梁ノ設ケナシ概ネ頗ル処トシテ裳ヲ褰ケテ渉レザルハナシ然レトモ其急流ナルヲ以テー朝氾濫セハ彌望皆ナ水是ヲ以テ河岸ノ長堤厳トシテ鉄壁ノ如シ其河底、砂石磊々殆ント足ヲ客ルベカラス然リ而シテ其雙岸磧地ノ如キ瀕年桑ヲ植エ池ノ辺下奥富地方ノ如キ桑園緑ヲ交エテ繁茂セリ此間産スル処ノモノ鮎ノミ水清ケレハ大漁ナシ俚諺宣ナル哉
長瀞胡桃淵円池等ノ諸泉皆入間郡増形村ニアリ共二近隣諸村落ノ田園二灌漑シ遂二泱瀼シテ北東赤間川二注入ス而シテ其長瀞泉ノ如キ長六十米突数奇濶僅二十米突許消々トシテ深出シ汯々トシテ流瀼シ孜々トシテ息マス清澄弄ス可ク久旱涸レス日冷歯ヲ慰ス而シテ其河流僅数尺湶々トシテ萬疋ノ縞ノ如ク繊鱗往来数フ可シ鳴呼泌彿タル甘泉トハ夫レ長瀞ノ謂ヒ乎
地質
地質ハ肥瘦相反シ入間江辺地方ハ灌漑ノ便アリテ水利二豊カナルヲ以テ其地随テ豊饒其堀兼青柳地方ハ平昿ヲ撹へ加フルニ水利二乏シ亦此ノ地瀕年桑茶ノ樹藝烟少シク繁盛ス抑モ亦土地ノ之レニ適スルニ因ハ其茶ノ如キ所謂狭山茶園範囲内ニアル乎
大気
気候ハ寒温共中等ニシテ人身二適シ其空気江東ハ極メテ乾燥江西ハ柏原村地方ハ背二森林アリ前二入間江アリ漸々湿潤ヲ帯フル乎敢テ人身ヲ害スルニ至ラス其柏原村ノ西部ヨリ笠幡村地方ハ夏時ハ朝暮烟霧濛々トシテ咫尺ヲ弁ス可カラス是森林ノ感動スルナラン其雨雪暴風ノ候八東京卜畧大差ナルナシ、亦大袋村地方ハ土地稍汗湿ナルヲ以テカ毒蝎ノ為メ間二耕野二出ルモノ害セラルモノアリ大二恐ル可シ
備考
(記述なし)
0207
〔政記記載〕
政治
江東諸村ハ入間郡庁ノ管スル所ニシテ其江西柏原安比奈諸村ハ髙麗郡下二属シ其郡庁ハ入間郡川越二在テ遥二之ヲ管理ス物産管理ノ法ハ間二小會社ヲ設ケ人民共同シテ為スアリ生糸暢業社有テ縣下一般同業二従事スルノ徒ヲ遥二範囲シ目今勢ヒ直輸ノ轤達セントス蓋シ漸ク追テ盛大ノ域二至ルナリ
人民
戸口ハ日月卜共二繁盛ス人情ハ嶮温相反ス半商半農ノ徒八概シテ軽薄専農ハ純乎タル温質卜称シ難シト雖モ薄フシテ黙ナランヨリハ其愚ニシテ素朴ナルヲ愛ス可シ其風俗鄙野禮譲廉節ノ大儀ヲ知ル徒少シ、貧富ノ度槪スレハ下等然レトモ瀕年豊饒飢餲二苦シムノ徒少ナシ里方図内二三ノ巨豪アルノミ以テ其貧富ノ強弱ヲ証ス可シ宗教ハー般二仏教ヲ信シ生計ハ概ネ農耕蚕織ヲ業トス人民ノ質薄弱教育ノ度因テ変化セシムへシ又兵タラシム可シ
住所
住所ハー般ノ景況ハ不潔ナル茅屋二寝食シ復官舍陸海軍営病院ノ設ケナシ旅舖大廈及園囿ナシ藤倉村二山城学校アリ大袋、山城、増形、藤會、大袋新田等ノ連合設立ニシテ又上奥富村瑞光寺二奥富学校アリ共二小学教育ヲ主ル亦寺院八大袋村二東陽寺上奥富村二瑞光寺下奥富村二興福寺笠幡村延命寺等ハ村中屈指ノ古刹ナリ
建築物料
笠幡安比奈柏原村ノ間ノ森林中間二松樹亭ニトシテ天涯二聳ユルヲ見ル斬テ以テ築材ノ補卜為ス可シ雑樹繁茂セルハ伐テ兵廠二作ルニ足ル可シ
農事
産物ハ茶及繭ノ若干量アリ政表自ラ有リ就テ見可シ
亦田壱及二付上六十円余中五拾六円下四十八円畑壱及二付二十七八円ヨリ十七八円二出入ス是田畝価直(ママ) ノ大畧ナリ
森林
笠幡村ヨリ東北柏原安比奈ノ諸村二連ナリテ其東西八百米突二出入ス其南北大約二吉羅米突相渉リテ雑樹アリ其密林中二川越ヨリ髙麗及飯能二通スル一大路アリ
0208
家畜及動物
鶏犬馬牛ノ単食二供スベキアリ其詳ナルハ政表二記スルガ如シ
工業
工業ノ著名ナルハ無シ
商法
商法ハ柏原村地方二在テ僅カニ土産ノ織物アリ大袋新田ヨリ縣道沿邉ハ至弱ナル共同社ヲ以テ茶及蚕ヲ商フルアルヲ見ル然レトモ目前ノ小利二糺々トシテ天下ノ経済アルヲ知ラサルカ如シ故二商法ノ商法トシテ記ス可キアルヲ見ルナシ
政記諸敷表 0208~0209
〔別表〕
0210
〔交通路記載〕
陸路
縣道アリ川越ヨリ扇町屋ヲ径テ八王寺駅二通ス則チ川越ヲ離ル北一里有半大袋新田ヨリ入間川村ノ北端二至ル其長サ本邦里程三拾丁数奇其幅十米突其道蜒蝎トシテ嶮ナラス雨降ル濘ヲ醸スハ其泥質ナルニ因ス
亦両里道アリ川越ヨリ飯能及ヒ髙麗二通ス其飯能道八安比奈新田ノ西北森林ヲ通過シ遂二大谷村二入ル其髙麗道ノ如キハ畧ホ同方向ニシテ小鮪(ハゼ)川二沿ヒ笠幡村二入ル此ノ両道共二歩ヲ追テ漸ク髙シ此ノ土地自然ノ傾斜ヲ帯フルニ根スレハナリ
水路
入間川江浅ク流レ急ニシテ舟楫ノ便ナシ特ニ北武岳木材運輸ノ便二少ク供セラル
河盂分隔線及山地
(記載なし)
河川及溝渠ヲ渡ルノ手段
(記載なし)
0211
電線
(記載なし)
備考
(記載なし)